書評#9 サン=テグジュペリ『星の王子様』
ジェイラボの活動の一環として、サン=テグジュペリ『星の王子様』を読んだ。
推薦者であるコバさんの前月書評・追加記事および今月のチームメンバーの記事を以下に貼っておくので、こちらもぜひご一読頂きたい。
僕は最近、これまでの人生で一番の挫折をした。自分の使命だと思っていたものが、これ以上ないほど完璧に潰えてしまったのだ。使命だなんて、何を大袈裟なと思われるかもしれないが、僕にとっては間違いなくそうだった。
僕は、2年前まで大学のスキー部で主将をしていた。関西地方に位置する大学のためか、スキーは初心者がほとんどで、経験者は年に2、3人だった。
我がスキー部では代々、上級者である学生やOB(社会人も含む)が初・中級者の学生にスキーを教えるという、完全に部内で独立した講習制度を取っている。他のスポーツがどうかは知らないが、外部のコーチやインストラクターを雇わないのは、少なくとも近隣のスキー部には珍しいシステムのようだった。
「上級者」かどうかの判断基準には、全日本スキー連盟という由緒正しい(?)スキー団体が主催する、「スキー検定」を用いている。スキー検定で1級に合格した者のみが、晴れて「講師」として初心者にスキーを教えることができるという仕組みである。
僕は1級に合格していたので、主将としての仕事をこなす傍ら、合宿中には後輩たちにスキーを教えていた。
今更になるが、僕たちが部活動として取り組んでいるのは、レースやモーグル、フリースタイルなどではなく、「基礎スキー」というマイナーな採点競技である。
知名度が低く競技人口も少ないため、指導の体系が確立されているわけではない。
したがって、スキーを「教える」とは言っても、結局は自分たちのイメージや感覚を伝えるのが関の山で、部内でしっかりと方針が定まっていたわけではなかった。その結果、部内には真偽不明のスキー上達法が溢れ、特に初心者の学生たちは、いったい何に取り組めばいいのか、相当混乱しているように見えた。
そのような現状を見かね、主将として、また部内講師をまとめる者として、何か出来ることはないかと考えた。そして導き出したのが、客観的な体系に基づいた厳密なスキー理論を構築し、それに沿って指導方針を立てるというものだった。
スポーツを教える、あるいは学ぶ上で、何を客観的体系として選ぶのが良いか。色々とリサーチする中で、とあるスキー系の動画投稿者が、確かなリテラシーの下でスキー理論を運用しているということが分かったため、それをそのまま拝借することにした。
当然理論の内容は詳しくチェックしたが、素人目に見ても論理上のギャップがほとんどないように見えた。詳しい説明は省くが、その動画投稿者はスキーコーチでありながら理学療法士でもあって、解剖学に基づいた上達法をまとめてくれていたのだ。
骨格の解剖学や物理学の文献を読み漁りながら動画コンテンツのファクトチェックを繰り返し、自力で行間を埋め、それを何度も行っているうちに、僕自身は理論の全体像を掴むことができた。
かくして、客観的に信頼できるスキー理論が手に入り、あとはそれを部内に持ち込めばいいだけだったのだが、そこに大きな問題があった。
それは、そのスキー理論が、一般に「正しい」と流通しているものとあまりにも違いすぎるということだ。
これも詳しく述べることはしないが、一般に流通する理論は、解剖学的事実と異なる記述を数多く含んでいた。スキーのインストラクターの多くが参考にする「教科書」では、スキー運動に主要な関節運動の機能性にすら、初歩的な誤りが見られた。
しかし、我がスキー部の部員を含め、一般スキーヤーは解剖学に精通してなどいないため、その真偽の判断をつけることができない。
そんな状態で「革新的な」スキー理論を持ち込んでも、それは真偽不明の並列な知識を新たに増やし、部員たちをさらに混乱させるだけである。
そう考えた僕は、一度に指導方針を挿げ替えるのを、とりあえずは諦めることにした。
まずは解剖学の専門知を全体に少しずつ行き渡らせて知識面での土台を作り、講師やOBなどから段階を踏んで理論の全体像を浸透させる。
そしてこれを、自分が主将を務める期間だけでなく、数年の時間をかけて行う。
上にも書いたように、我がスキー部ではOBが学生に教えるのは当たり前によく見られる光景だったため、引退後も「講師として」部に関わるのは不自然ではなかった。
こうして、数年をかけてスキー部の指導体系を改革するというのが、僕にとっての使命になった。
当たり前だが、スポーツを上達させるには、理論が正確でありさえすればいいというわけではない。
物理的現象にのみ着目するのではなく、生徒がどのような「感覚」で運動しているのかを引き出し、それを適切なものに矯正することも重要である。というかスポーツのコーチというのはむしろそちらがメインであろう。
そのためには、生徒とのコミュニケーションの仕方なども考えなければならないし、また根本的な思考の方法にも介入する必要がある。
上ではスキーの力学的な理論体系を重視した書き方をしたが、僕が動画投稿者の力も借りて構築したのは、「どういう態度で臨めば、自力でスキーを上達できるようになるのか」という問いへの答えとなる、ひとつの壮大な体系である。正直、ここには書ききれない。
ともかく、まずはこれを、現役の講師たちにズレなく共有することを目標にした。
夏の間に講師の指導方針を統一することを次期主将に打診すると、ぜひお願いしたいとのことだったので、去年は4度ほど「講習会」を開いた。
はっきり言って、僕の説明のすべてが伝わるとは思わなかったが、スキーというスポーツに向き合う僕の態度だけでも伝わればいいと熱心に言葉を重ねた。色々あったが、結果的に、講師の何人かにはスキー理論の妥当性を理解してもらうことができた。これはとても大きな収穫だった。
そして今年も「講習会」を主催した。
10月の頭に第一回を終え、月末に第二回を、という予定だったが、この指導体系の改革は、第二回を迎えることなく永遠に潰えることになってしまった。
発端は、後輩のひとりの講師が、LINEグループ上において、僕のスキー理論に猛反発してきたことにある。
彼は、僕が持ち込んだスキー理論の一部に納得が行かなかったようで、当該部分に関して講師全員を交えて議論したいと言った。詳しくは述べないが、さまざまなことを考慮した結果、テキスト上でやり取りをするのが全員にメリットがあると僕は判断したため、流れでではあるが、彼とスキー技術に関して議論を行うことにした。
その内容は高度なスキー知識を必要とするため端折るが、よくSNSで見られるような「レスバ」ではなく、相手の意見の不明瞭な点に関して真摯に質問を重ね、こちらで情報を整理しては判断を仰ぐという、「誠実な話し合い」の範疇に収まるものにしようと出来るだけ心がけた。
そうは言っても、論点に関しては相手の主張は到底容認できるものではなかった(「怪我をするのもスポーツのうちだ」というレベルの主張をしていた)ため、丁寧に前提を確認しながら、相手の主張をことごとく否定することになった。
もちろん言い方には気をつけていたし、共有可能な前提から推論を重ねているつもりだったが、ついには相手が感情的になってしまい、それに釣られて僕も数レス、感情的に返信をしてしまった。
誓って人格否定などをしたわけではないが、それで相手は態度を硬化させてしまい、議論の終着点を見失ってしまった。
とりあえず話し合い自体は僕の返信をもって打ち切りとし、講師全員にアンケートで意見を仰いだ。当然これは「どちらが勝ちか」などというものではなく、議論自体にどう感じたかや、講習会の存在意義そのものなど、包括的なことを問うものだった。
僕としては、一部発言が尖ってしまったことを除いては、誠実に、真摯に説明責任を果たしたつもりであったが、講師のアンケート回答を見ると、「レスバに見えた」「幼稚な意見の押し付け合いに見えた」など、かなり手厳しい意見が多くあった。
もちろんそれだけならその部分を謝罪して改善すればいいだけであるし、なんら僕の目的を揺るがすものではない。
僕が最も堪えたのは、「スキー理論なんて宗教にすぎないのだから、議論するだけ無駄」「OBが現役の講師の方針に関わり過ぎないでほしい」という回答である。もちろん、これらはオブラートに包んでの発言だったが、要約するとこういうことであった。これが複数名の回答に見られた。
僕はこれらの回答を見たとき、自分の使命感が大きくグラつくのを感じた。
自分の中で「正しい」と信念を持ってやっていたことは、後輩たちにはなんら伝わってはいなかった。ただのOBの部活動への過度な執着にしか見えていなかった。彼らは、スキー理論に限らず、記述の妥当性を厳密に精査したこともないような身で、「正当性の吟味など無駄」などと嘯いてしまえる。
そんな信頼関係で何を伝えようが、僕の望むような形で学んでくれることはない。
そう確信した僕は、講習会を含め、部内の指導体系を改革するという一つの身勝手な使命を、完全に畳むことに決めた。自身の無力さを認めることにしたのである。
「スキーの知識を教えてください」と乞うてくれた人もいたが、僕が伝えたかったのは、知識の寄せ集めではない。それでは何も変えられない。
単発の知識群を教えるだけでは、また生徒たちを情報地獄に陥れるだけである。
理論の「全体像」は、人間不在の知識群ではない。そこに「像」と入るように、明確に誰かのイメージである。だから、それを受け入れるためには、その人の「価値観」そのものに関心を持たなければならない。
僕は、そのことに気づいていなかった。自分には後輩に関心を持ってもらえるだけの人間的魅力がないということに。僕の伝えようとしていることに、皆が興味を持ってくれていると勘違いしていた。自惚れていたというべきかもしれない。
こうして、僕はひとつの使命を、自業自得で失った。僕が勝手に始めたことなので、すべての責任は僕にある。
しかし、僕は「信念」すらも間違っていたのだろうか?
僕は僕の「正しい」に基づいて目的を選び、手段を選んできた。ひとつも妥協はしなかった。
信念を持ってやってきたと、誓って言える。
サン=テグジュペリは、僕のことを、「おかしな大人たち」の1人として、王子さまと話をさせてくれるのだろうか?「威厳を保つことに必死の王様」や「うぬぼれ者」、あるいは例えば、「信念に溺れた改革者」として?