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宮川香山は横浜を信じた


今回は、よくある誤解についてのお話をしたいと思います。

宮川香山は、家督を継がずに故郷を捨て、横浜で大成した。
と考える方もいらっしゃいます。

宮川香山の関連本は少なく、実際何が起きていたのかご存知ないのも無理ありません。

香山は父と兄を亡くし、19歳で家督を継ぎました。
お父さんの築いた窯も人手に渡ったのではという考察もあり、
談話によれば香山の許に残った職人は5、6人でした。
明治維新で世は大乱。注文は減るばかりです。
11代若旦那の香山は苦難の経営を強いられました。

横浜で窯を開きたい。それはお父さん、長造さんの望みでした。

慶応2年。
香山24歳のとき、朝廷へ献上品の茶器大揃50点を作れと、
宇都宮藩家老からムチャ振りされます。
「無理ですっ!!」と辞退の旨伝えるも却下されちゃったので、
意を決し、期限内に見事仕上げて納品しました。
その偉業が、香山がのちのち横浜で大成する基盤となるのです。

そして香山29歳の時に、きました。横浜行きのお誘いが。

それはもう、行く前も行った後しばらくも、周りから「京都に帰ったほうがいいよ」と再三アドバイスされ続けています。
蒲柳だった幼い頃から、窯技の髄を父長造さんに叩き込まれた香山さんです。
香山が生涯を通して研究し制作した京都のやきもの仁清乾山の写しは、
高浮彫や釉下彩など、眞葛焼の個性的な特徴に活かされていきます。

故郷を捨てたのなら、そもそも、香の号を名乗っていません。

香山は家族を、故郷を愛して、
開港前の当時半農半漁の小村だった
横浜の可能性を信じてくれた偉人なのです。

参考資料:
「横浜美術館叢書7 宮川香山と横浜真葛焼」著 二階堂充 発行 株式会社有隣堂 2001年
「初代宮川香山 眞葛焼」編著 山本博士 発行 宮川香山眞葛ミュージアム 2018年
「神業ニッポン 明治のやきもの 幻の横浜焼・東京焼」監修:荒川正明 2019年

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