第19回 「マキシマム ザ ホルモン - What's up, people?!」の思ひ出
2006年10月4日、『デスノート』のアニメ放映が始まった。実写映画を通じてRed Hot Chili Peppersという存在を知ったことはすでに第15回で書いたが、メディア・ミックスに伴う主題歌のタイアップは、少年少女にとって新たな音楽を知ることのできる貴重な機会である。アニメについても、本編よりもむしろ主題歌を担当したアーティストを知れたことに最大の収穫があった。
第1話から第19話までの主題歌を担当したのは、ナイトメアというヴィジュアル系バンドであり、これには兄が夢中になった。このことは後に、X JAPANやDIR EN GREYといったバンドの開拓へと繋がっていくが、それはまだ未来の話である。
本題は、第20話から主題歌を担当した2代目のアーティストのほうである。2007年2月28日、いつものように録画したアニメを見始めると、爆発的イントロのリフとともに、新たなオープニング映像が流れ始めた。
おお、今までに聴いたことがないような音楽だ……どうも流暢な英語で歌っているようなので、海外のバンドだろうか……そもそも構成からして「Aメロ⇒Bメロ⇒サビ」というJ-POP的な枠組みから外れているし、なんかものすごく叫んでいる……あまりに未知の体験であるため、どう受け止めていいのかよく分からない……よく分からないが、よく分からないからこそ気になる……とりあえず、歌詞を調べてみよう……。
なんと、英語に聴こえていたものは、日本語で歌っていたのか……
そしてこれは……
ものすごく社会派のバンドだぞッ!!!
まず「便利便利万歳」というのは、文明社会に毒されてしまい、安全性や利便性のみを追い求めるようになった現代人への痛烈な批判であるように思われる。今で言えば「コスパ最高!」とか言っているような連中だ。
当然、安全や便利という目先の欲を追い求めるだけの人生では、人間としての実存は失われていく。大学に進学して、就職して、結婚して、子どもを生んで、憧れのマイホームも手に入れたのに、なぜだか満たされない……おかしい……おれは「正解」だけを選んで生きてきたはずなのに……。そのような現代人に対して、語り手は挑発的な言葉を投げかける。「ほら、ビリビリ怒ってみろよ」と。
この世は不安や犯罪で満ち、戦争がなくなる気配は一向にない。しかし、文明によって完全に家畜化されてしまっている人間たちは、そのような心を乱す不安から目を背けるため、消費にかまけることによって自己忘却に勤しんでいる。かくの如く、人間とはどうしようもない愚かな存在だ。だが、おれはそんな家畜のような人生など御免だ。おれの魂の底で喚いている性を始動させ、架せられたくびきを断ち切ってやる。これを聴いているお前はどうだ、人間どもよ。ワッツ・アップ、ピープル。
……と、だいたいこのようなことを歌っているのだろうなあと、中学2年のおれは思った。実際、CDをTSUTAYAでレンタルしてきて、歌詞カードに付された「曲解説」を読んでみると、おれの解釈はそう間違ってはいなかったようだ。
作詞者のマキシマムザ亮君いわく、本作は「別にいいじゃん。そんなこと。どうでもよくね?」という一言によって、すべてを済ませてしまう人間への批判であるらしい。そのような人間は、自らの存立を脅かすノイズから身を護るため、「不安」から目を背けようとする。だが、人間に「不安」という感情が存在するのは、生のエネルギーが存在することの裏返しであり、必ずしも「不安」はネガティヴなものではない。亮君は「いちいち疑問に思って、いちいち怒って生きたい」と言う。「あっさり生きるな! コッテリ生きろ!」というのが本作のメッセージだ。
マキシマム ザ ホルモンは、熱心なファン以外からは、まったく意味不明なことを歌っているバンドであると思われることが多い。そのため、公式プロフィールには「その意味不明に感じる歌詞にも奥深いメッセージ性が込められている」とわざわざ書かれているが、しかしこの説明文は亮君の譲歩であって、決して本望ではないだろう。実際、事前情報なしでこの曲を聴いたおれの第一印象は「社会派バンド」であったのだから。むしろ「純愛ソング」を歌い上げながら、裏では平気で浮気をしているアーティストのほうが、よほど意味不明である。
さて、怒りという感情は必ずしもネガティヴなものではないというテーゼは、当時のおれにとって目からウロコの考えだった。日本においては、波風を立たせるような感情の表出は忌避される傾向にある。おれも人並みに、「怒り」や「不安」といった感情はネガティヴなものであり、表出すべきものではないと思っていた。だが、よくよく考えてみればこれはおかしなことだ。例えば、目の前で明白な不正義が行われているというのに、波風を立たせたくないと言って見て見ぬふりをする人間がいたとしたら、そいつは人間のクズであろう。怒るべきときにちゃんと怒れる人間こそが、正しい人間なのだ。おれだって、戦争や貧困に関するニュースを見たり、いじめを扱ったドラマを見たときには、強い憤りを感じているではないか。そうか、怒ってもいいのか……
この新たな気づきに有頂天になったおれは、中学を卒業するときに先生へ宛てて書いた作文において、次のように宣言した。
「僕は怒りをネガティヴな感情だと思っていましたが、それは違うって気づきました! これからはたくさん怒って生きていきたいと思います!」
卒業する生徒から、感謝の言葉ではなく怒りの言葉を贈られて、担任の教師はさぞ困惑したことだろうが、爾来、おれは怒りを表明することに臆することはなくなった。社会に目を向ければ、この世は怒るべき事件に満ち溢れている。
大川原化工機事件
ウィシュマさん死亡事件
森友学園問題
もちろん、ただ怒りの感情に身を任せればいいというわけではない。現代は、人々の鬱屈した感情につけこみ、憎悪を煽ることで政治的な動員がなされるポピュリズムの時代でもあるからだ。特定のカテゴリーに結びついた人々を「敵」認定することで、問題を単純な図式に落とし込むような言説は、人々の感情を慰めるための政治的ポルノであり、それは正義の怒りからは程遠い。「これは許せない!」と思って、安易にリツイート・ボタンを押せば、フェイク・ニュースの拡散に加担することになるだろう。
このような複雑な状況に対処するための利巧な方法は、感情を鈍麻させることにより、最初から「怒り」を忌避してしまうことである。これによって「正義の怒りに燃える者」になる可能性は断たれるが、その代わり「痛い奴」になるリスクを回避することができる。そもそも勝負をしなければ、勝つこともない代わりに負けることもないように。「冷笑的」とされる態度に一定の人気があるのは、それが「安牌」であるからだろう。この複雑な状況の中で脆弱な自己を保護しようと思えば、批判の矛先の届かない安全圏に身を置くことは、まったく合理的な行動なのである。ただ、真に「冷笑的」であることができる理知的な人間などほとんどいないので、結局のところ燻っている感情に火をつけられ、様々な悪事に動員されてしまうのがオチなのだが。
「怒り」や「不安」を否認することは、それらの感情に対処する方法としては、むしろ悪手である。「怒り」や「不安」から目を背けることなく、真正面から向き合うことによってしか、人間は感情的に成熟することはできない。これは、ギターが上達するための唯一の方法は、ギターを弾くことであるのと同じである。自らの感情をコントロールできずに失敗したことのない人間など存在しないし、偽情報に騙されたことのない人間など存在しないだろう。そのような失敗を重ね、反省を続けることによって初めて、我々は怒るべきときに怒ることができる人間になることができるのだ。
おわり
追記
おれの親しい友人であれば、おれがロックに目覚めた最初のバンドは、マキシマム ザ ホルモンであることを知っているだろう。
「なるほど。こうしてホルモンに出会うことによってロックに目覚めたわけだな!」
このように思ったかもしれない。
だが、この時点でもまだ、おれはロックに目覚めていない。
おわり
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