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続・お遍路ウォーキング日記(38:二十番鶴林寺へ 其の四)

【2024/11/15(金)Day 38】

 今日も風邪引きでほとんど家から外に出ていない。病院に行った程度であるため、歩数の記録をとっていない。歩いたとしても1,000歩前後である。

 今日も何を書こうか散々考えてはいたのだが、札書十九番立江寺から札所二十番鶴林寺までの間は特にこれといって書くようなことが思い出せない。

 そこで今日は巡礼とは少し離れたことを書こうかと思う。

 四国八十八箇所の札所はどれも歴史の長いお寺ばかりである。そのお寺の歴史の中で必ずどのお寺も通過してきたものに「神仏分離しんぶつぶんり」と「廃仏毀釈はいぶつきしゃく」と言うものがある。これは直接巡礼には関係なくても日本人なら知っておくべきことでもあろう。

 それを簡単に書いてみる。尚、前回、前々回とも巡礼日記では必ず書いたことでもある。

 古くから日本の神道と仏教は似ていたこともあって、ごちゃ混ぜで考えられていた。しかしよく考えてみると神道は日本古来のものなのに対し、仏教は海外から渡来したものであって、もともとは違うものである。

 今でも神社とお寺の違いがわかるという人はそんなにはいないと思う。例えば神社には必ず鳥居がある。お寺にはお坊さんがいる。その逆は無いのだ。しかし建物もよく似ているし入り口には手水鉢もある。もともと見分けがつかないものなのである。

 昔は見分けがつかないのだったら同じものと考えようと言う風習があった。これを「神仏習合しんぶつしゅうごう」と言う。古くは奈良時代くらいから何世紀にも渡り日本の神道と仏教はごちゃまぜに考えられていた。

 ところが明治元年に神道と仏教を厳密に違うものと決め、切り分ける法律が施行された。これが「神仏分離令」である。これにより神社は法律により守られ、仏教寺院とは異なる扱いを受けることになる。

 一方仏教は海外渡来のものとしてボイコットする運動が高まる。特に水戸学の盛んだった地域はその思想が著しかった。仏教を廃して神道こそが日本の宗教だという考えを高めようとする運動が盛んになった。これこそが「廃仏毀釈」である。

 顔や首のない仏像をお寺で見たことのある人もいるかと思う。それらは廃仏毀釈の運動が盛んだった頃に仏教を排除させようとする運動のために行われたことである。

 四国の札所や四国巡礼の長い歴史から見れば神仏分離などと言うのはつい最近の出来事と同じである。それ以前長く続いた神仏習合の習わし通りにお寺と神社がくっついていることはごく当たり前のことだったし、かつては神社が札所だったこともある。少なくとも明治以前は八十八箇所が全てお寺だったことはない。札所のいくつかは神社だった。

 そのような歴史があると言うことを知っているだけでも札所の見方が変わってくるかも知れない■

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