電車の中の不快を盗撮して合意を得る無口な人
電車の中で盗撮をして「これはいかがなものか」という主張を盗撮した動画や写真と一緒にSNSにあげて問う行為
『僕』は思うのですが、なんでその場で言わないの?です。
まぁ、このご時世ですから何があるかはわからないですし、言わぬが華、触らぬ神に祟りなし、君主危うきに近寄らず
己の正義を人の目に触れるような行為は愚かであるという自制心が働くかもしれません。
しかし、その許せないという己の正義は誰かに問いたいというより自分の安心感のために同意してほしいそんな気持ちから不快な行為を盗撮して誰かに投げかけるのかもしれません。
SNSで見ていると時々、さも、自分の正義はあっているよね?という答え合わせをし、居合わせた不快をわかりやすくする「図解」としての盗撮写真を一緒にして投稿する人がいます。その自分が不快を感じた相手の行為を解決したいわけでもないのです。
ただ、自分が感じたこの不快という気持ちを誰かにわかっていてほしい。
自分の価値観のようなものを誰かに同意してほしいだけ。
そんな「合意」がほしいだけなのです。
そのための不快を解決できない歯がゆさをそれにすり替えることで自分の気持だけでも解消をするという行為。
人はそれで生きていけるのでしょうか
生きていると言えるのでしょうか
これはそのネタを投稿した人間もそうですが、一番悪いのはそれに乗っかり続ける人間です。このような人間botはこのような問題の肝心要をズラしてしまうのに大きな力を加えてしまうのです。
なぜならば、これに反応しなければこのネタ投稿は”独り言”で終わるのです。
SNSは公共の場であるといいますが『僕』はそれは少し違うと思っています。
人の腹のさぐりあい、つまりは疑心暗鬼がよりネガティブな部分だけよく見えるような場になっている、そして現実のいう”公”と異なるのはその先にいるのは人間なのかbotなのかわからないという点です。
もはや、人間のかたちをしたそれが向こう側にいるかもしれませんが、SNSは最低限の識字読みがあれば参加できる場です。
つまり、人間というものを自分の想像の中で考えている外の存在かもしれないということです。もしかしたら、市民というようなものではなく地獄に巣食う、餓鬼や畜生などの類いがいるのではないのかということです。
これからの未来はここにbotというAIを考慮して目の前に見えない誰かを想定した”疑心暗鬼”を持って生きていかなければいけないかもしれません。
つまりはここで言いたいのは人の不快に群がる何かが悪いのです。
その”何か”は、人の不快に新しい不快を付け加えていき、またある”何か”は拡散する行為とともに自分の正義を誰かにと広めます。
このときの正義は自分はこれに同意する、だからいい人間である、自分の正義は正しいのだと肯定されているような錯覚を得る連鎖。
しかし、SNSに投稿された誰かの不快は解消されるわけでもなく、現実においてその場の問題解決になるわけでもない。
なんとも不思議なものだなぁと考える次第です。