スマホ認知症やスマホ脳など定期的に出る警鐘についての病理
スマホ認知症
東洋経済の記事を読んでいて考えたことを書いていきたいと思います。
元記事は以下からです。
スマホ認知症というものが30歳からの若者に流行っているとのことの記事を見ました。
これは「だらだらスマホ」、「ながらスマホ」の生活によりスマホへの依存が高くなり起こる現象であるというものです。
スマホ依存により脳過労が起こることで様々な体調を崩していく、または認知症に近い症状を発症することをスマホ認知症というとのことです。
定期的に訪れるスマホ○○○
『僕』の考えではこれはある定期的なブームのものにしか過ぎないものだなと考えています。
まず、第一にスマホ認知症などという病名はありません。
また、その原因となる脳過労などという病名や症状も存在しません。
脳が疲れて情報処理能力が低下した状態を脳過労という定義にしているようですが、脳は疲れません。
また、この定義に沿って考えるのであれば難解な事象を考える仕事をすること、勉強することなどを行えば"脳を疲れる"状態に持っていくことができ、脳過労が起きて同様の症状が発症するはずですが聞いたことがありません。
スマホ認知症の中核症状という説明の疑問
これについてはまず、中核症状というものの説明をしなくてはいけません。
認知症の症状には2つの分類があります。中核症状と周辺症状と言われるもので関係性としては、中核症状の影響下において発症する事象を周辺症状というものになります。
はじめに中核症状いうものは「大脳皮質が破壊をされて発症し進行する症状」のことを言います。
中核症状には以下のものが含まれます。
・記憶障害
・見当障害
・理解、判断力の障害
・実行機能障害
・視空間認知障害
・失語
・失認
・失行
また、認知症に中核症状の影響で現れる広い範囲の症状を「周辺症状」といい様々な症状が出てきます。
記事で説明をされているスマホ認知症の中核症状というものも、これに基づいてのものと考えますがスマホが原因で発症されるものと言い切るのは難しいものです。
まず、定義から外れていてスマホを使用すると脳の組織破壊が行われるというデータはありません。
脳の破壊が行われないであれば中核症状という言葉の定義も使えなくなるため、この説明は説明不足であるか、間違っていることになるのです。
スマホ認知症の改善方法の疑問
記憶には入力→整理整頓→取り出しという過程があり、スマホを利用しない時間を作りましょうなどと書いてあるだけ……
これはもはや医学の問題ですらなく人間の新しい行動様式による影響下と言い換えていいのではないでしょうか
スマホを使い続ける起きる問題への警鐘は定期的に起きる
「スマホ脳」などの本が2年くらい前に発売しました。
また、テレビなどでもスマホゲームのやり過ぎなどを問題視して度々この内容のものがフォーカスを当てられ一時的にブームになります。
スマホは悪いものではありません。
使う人間に問題があるものであり、使い方に問題があるのです。
また、スマホ認知症のような症状、とくに鬱などをスマホを持っていて使っているとなり易いなどという考えはとても安直で安易な考えです。
現在、老若男女の人たちどれくらいの人たちがスマホを持っているでしょうか。
その母数を考えれば統計的に確率的にスマホを持っていてかつ使っている人が鬱である確率は、この記事にあるようあ説明がつくくらいの数字を出すと考えます。
スマホ依存であることが必要な若者の価値観
令和の若者、Z世代といわれる人々やスマホが産まれてから当たり前にあるデジタルネイティブな若者たちによってはスマホの依存であることの必要な場合もあります。
常にSNSやメッセージアプリなどで繋がることを心地よく感じている人々もいます。
この理由の一つ目としては若者のタイパ意識です。
よくTwitterなどで自分が○○○に行ってたとつぶやくとリアクションがきます。
「え、○○にいたの? わたしもいたよー、エンカしたかった」
つまり、近くにいたのに会えなかったことを後悔するお互いの姿です。
また、自分がどこどこにいるということをつぶやいたり、いま時間があるとつぶやくと次のようなリアクションがきます。
「わたしも近くにいて時間あるから会おうよ」
つまり、待ち合わせはしない、SNSでここにいるといい、近くにいた知っている人と会う
この現象を「指止まれつぶやき」と『僕』は呼称しています。
つまり、SNSを通してマスとつながり、LINEなどで常時親しい友人とつながる。
若者にはプライベートという意識はあまりなくオープンにしています。
また、この行為の意味は「自殺」をしないための精神衛生を保つ役割も果たしています。
つながりっぱなしであることで、お互いの存在を意識し合うことができます。
スマホ依存のニヒリズム
一見、スマホの依存というものはニヒリズムと捉えがちではありますが、若者たちには隠れた無意識的なニヒリズムが彼らの心の中にはあります。
これを無意識受動的ニヒリズムと呼んでいて若者の特徴であると考察しています。
若者というのはいつの時代もシラケや遊びがあり、今の若者にとってはこのシラケや遊びがスマホによって急速に肥大化をしています。
これによって無力感を基調とする私生活主義、観客民主主義が蔓延します。
ここから心の拠り所のなさ耐えられなくなり、この無定形のエネルギーがスマホ依存の周辺症状として現れているのではないでしょうか。
スマホの依存について考えるのに必要な補助線
スマホ認知症などという言葉遊びから生まれるスマホへの警鐘に必要なのはここでの記事で取り扱いをされてきたエセ医学ではなく、社会学や哲学なのではないかと考える次第です。
ここでの補助線と使用するのはジャンボードリヤールという社会学者が説明をしている一文です。
世の中は情報が過多になり過ぎたことで複雑化し、意味が成り立ちゆかなくなっているというのです。
この情報を過多にしているのはもちろんスマホです。
情報過多によるものの影響はその心理状況や行動を変化させていきます。
それはうまく処理をする方法を自分で考えないからです。
スマホというハードもソフトも進化してきました。
しかし、人間というハードは進化しようがありませんし、ソフトを更新していく作業は今まで人が生きてきた中で考えもしなかったことです。
(多くの人が……)
この情報が過多になり複雑化されたとき、多くの人は示された単純な情報へと飛びつきやすくなるのです。
この選択を繰り返していくと人はスマホ認知症に書いてあるような状態へと陥ることでしょう。
なぜならば、この選択は多くの情報を自分で選んだものであると一見、考えますがじつは単純な示された選択肢を選ばされただけなのですから
例えるならば、ババ抜きをしているときに多くのカードから常に取りやすい位置にあるカード(ババ)を引いて(引かされているのです)しまう状態なのです。
情報という表象に惑わされて
多くの情報で表象(イメージ)を通してでしか現実を見ることができないため、スマホが必要であり、スマホの依存という状態を起こすのであると『僕』は考えています。
つまり、自分が生きている現実から表象(イメージ)へのアクセスではなく、表象(イメージ)から現実を作り出してそこに自分を置くのがスマホ依存の人たちなのです。
スマホ認知症などという言葉ではなく自分の世界とスマホの世界の現実をどのように向き合う方法や思考ができるかなどを考えて提示していくほうが余程有意義なものなのではないかと考えるところです。