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日本人の生きるためのイジメという劣等性のマッチポンプ

生きるということは、生きていくということは自分自身を知らなければなりません。
『僕』は日本人ですから日本に生まれ日本で育ちました。
色々な本を読み、色々な人と関わってきて観てきた日本人について書こうと思います。
今回は日本人のダメな部分についてです。

日本人というのは多くの人が劣等性のマッチポンプを生きる糧としています。

これではまだ理解に及ばないでしょうから少し説明をしていこうと思います。

日本人というか人はというか、他人の劣る部分を指摘しては悦に入り、ときにはそれを笑いとして、エンターテイメントとして扱います。
これは日本人だけではないかもしれませんが日本人だけがこの劣等性のマッチポンプをこのように扱っていると言っても過言ではありません。

自分の経験から

『僕』の経験から申してもその多くを伝えることができます。
『僕』は小さい頃からイジメられてきました。
とくに名前、苗字についてはとくに多かったなぁという印象です。
(ここでは本名が出てしまいますし、苗字が珍しいため伏せさせていただきます)
また、運動もできませんからそれについてバカにされたりしたこともしばしばです。
しかし、そういうことをする彼らは対象を見つけると馬鹿にしたり叩きああい他人のこころが折れるとすかさず次の劣等性をスティグマとしてうえつけ繰り返す。
やられる本人はやり返す気力なんてあるわけもありませんし、落ちるだけ
落ちたらその落ちたところをまた叩き出す、マッチポンプ式のイジメです。
これは何も子供だけの間で起こるものではなくいい大人もしますし、なんならいい大人の方がする人が多いのではないでしょうか
このようなことをいうと哀愁のように表現をする人間がどんなに多いことかと思っています。
いわゆる、エレジーな表現というものです。
しかし、この問題をテレビや新聞などのマスコミは他人事の悲しいドキュメンタリーとしてドラマ化して伝えます。
これがいけないのです。
哀歌ではないのです、「怒り」なのです。
しょうがないで逃げられる問題ではないのです。

歴史における日本人の劣等性

では歴史を見てみましょう
ここでは人ではなく動物の扱いにおいての国民性を題材にします。
明治時代に他国を知るために海外へ日本人が渡航したときのお話です。
その中の日本人は海外の動物園というものを視察したとき驚愕したそうです。
その日本人、久米邦武は動物の生態を知るために飼育されているのを目の当たりにして久米は驚嘆したとのこと。
なぜなら、日本ではそのように動物を扱ったことはなかったからです。
せいぜい、猿回しのような動物に芸をさせて見せ物にする、人間とは異なる珍妙な動きを自分たちとは異なり、劣っている部分を笑う道具にしか扱っていなかったからです。
そうです、日本人は動物というものすらも笑いの道具として蔑む対象としていたのです。
このような自分たちより下のものへ蔑む行為によって自分たちの不安をなくす(忘れる)ような行動というのはこの頃からあったのかもしれません。

日本の笑うという文化について

日本の芸能には多々ありますがここ30年のテレビの芸能というエンターテイメントの劣化というのは目もあてられません。
他人を傷つけて笑う、人を馬鹿にして笑う、お金を持っている持っていないを笑う
様々なエンターテイメントとしての在り方が出てきていました。
これは面白いというものを押し付けるいや、もともとそれを面白いという素養はありましたからあとはそれを助長するだけ
このような笑いは日本だけでしょう
海外にはピエロがいるじゃないか
あんな道化と何が違うんだという人がいるかもしれません
それを次で説明しましょう

ピエロと日本人が笑われる違い

日本のお笑いは他人が人を馬鹿にして笑うが、ピエロは自分で自分を馬鹿にして笑うのです

つまり、ピエロには美学があります。
そして、そこにアートがあります。
しかし、日本のお笑いはただと劣等性につけこんだ、多くの人の普通から蔑み劣る人間を見下すことの差異から出る笑いです。
何が面白いのでしょうか

ピエロについては以下に書いておきます

ピエロの役割として、滑稽な役を演じることで、会場を盛り上げるというものがあります。場面転換の際、観客を飽きさせないために生まれた存在で、コミカルな動作だけで笑いを取ります。このような役割は特にサーカスにおいて重要とされています。

一方で、ピエロが泣いている理由については、複数の解釈が存在します。一つの説は、ピエロが自分自身を笑いの対象とし、他人を馬鹿にすることなく笑いを取る存在であるため、本当は傷つくこともあるのだということをその涙で表現しているというものです。

また、別の伝説では、ピエロが目が見えない花売りの少女と恋に落ち、彼女のために働き、手術費用を稼ぎ出すという話があります。手術が成功し、少女が見ることができるようになった後、彼女がピエロに感謝の涙を流したという話です。

さらに、ピエロの起源はイタリアの即興喜劇における「ペドロリーノ」という滑稽な召使いの役にあり、これがフランスなどに広まって「ピエロ」と呼ばれるようになったとされています。そして、17世紀後半には愚直で涙もろいというピエロ像が生まれ、これが涙のメイクにつながったと考えられています。

以上のような要素から、ピエロが泣いている理由は、その演じる役割の深さや複雑さ、さらにはその起源や歴史的背景によって形成されていると言えるでしょう。


結語

これらのことから日本人というのは不安を解消するためにその劣等性を利用してときに笑いをときにはこころの一時の不安から逃れる手段とします。
しかし、その劣等性による行為をときには笑いなどのエンターテイメントなどといい火消しとすることを繰り返す。まさにマッチポンプ。
この劣等性は規範がない日本人に起きることは必然であり、どこまでも自己中心的であることを示しています。

日本人が集団主義のように見えたり、協調性のあるように見えるのはこの不安を解消する側に素早く身を転じる勝ち馬に乗る時だけのように思えます。
日本人というのはその多くが自己中心的で自己同一性を欠いたものではないかというのが『僕』の考えです。

この処方箋として考えをしり、自分たちや他の人間がどういう性質、社会での立場、在り方なのかを知ることが自分をまたは他者を俯瞰してみて逃れることができるのではないでしょうか

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