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バイアスの中で『僕』らは生きている

2024年の衆議院選挙も終わりました。

突然ですが何でもいいのですが、何かの数値を予測するようなゲームをするとします。
これは1ヶ月後の株価でも何でもいいのですが……、衆議院選挙というゲームでもいいでしょう
とある専門家個人が考えるとある事象の結果とより多くの数を持った集団の考えた数値の平均値のどちらが優れた結果を導き出すかということを調べた人がいます。

正解はみなさんの予想通り、後者のほうです。

ひとりの専門家が考え出した結果よりも、より多くの素人の個人個人が予測した数値の平均値の集合知のほうが優れているのです。
これがわかっているのですから、民主主義として例えば選挙にはより多くの人が参加すれば「優れた」政治家を選び出し、優れた結果を導き出すのかもしれません。
しかし、これは各個人が「独立」をしている場合において発揮される優位性です。

話し合いをしたり、誰かのバイアスがかかってしまえばこれらの結果は導き出されることはありません。

衆議院選挙のような選挙というゲームにおいては、とくにこれが色濃く出た結果になったのではないでしょうか

この国の人たちはとくに個人個人という自分を大事にするくせに、その思考は非常に簡易的なものでの判断と情報処理をするように最適化しています。
自分で調べませんし、SNSなどのエコーチェンバー現象、フィールドバブルという概念すら持ち合わせていませんからそのバイアスへと引きづられて自分の行動や思考が決定していきます。

これによって導かれた結果がよかったかどうかは後の歴史が証明をするとしても、その時代を生きる彼、彼女らはその歴史を振り返る前に自分の選択について関わらないといけないのです。
なんともおかしい話ですね。

自己責任などという言葉が跋扈して個人の楽しみなどを最大化することに特化し個人に徹底的に溺愛するような振る舞いをするくせ大切なところは自分の思考を信じきらず他人の旗へとついていくのですから。

それは愚痴というかたちや自分たちの生活が国によって脅かされたとしてもそういう社会を選択してしまったという自覚すら持たずに生きるという、生きられるという人生は他責におけるシーソーゲームをずっと続けていくことをよしとするのでしょう。

民主主義というものはいっけん、良いもののように感じられるかもしれませんが、それはそれを形成している人間の集団の生活様式と民度によって支えられるものであり、それが劣化したものであれば結果は最悪になるというのは現在の周りを見てみればわかるでしょう。

この「狂気」というものがむき出しになった時代に『僕』たちは何を暗闇を進むためのたいまつにして生きればいいのか、その先の光をどのように見つければいいのか

この狂気の中では見つけるのは難しいのかもしれません

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