「飲まず食わずして苦労する」を今人たちはするのか
飲まず食わずして苦労する
こんな経験というものはあるでしょうか?
『僕』はじつはあります。
もう貧乏だったときは食べるものって、コンビニで安くなったおにぎりとか
あの頃は280円とかで食べることができる牛丼だったり……
働きながら大学へ通っていましたため、文字通り寝食忘れてでした
寝るというのは布団の中でなんてことは記憶がありませんからね
SNSや YouTubeの動画などでは寝食忘れて醜い姿など出てきませんから、誰もが一発逆転のような様相で何かを成したと勘違いさせてしまう節があるのです。
『僕』がそんな苦労していたなんて時代の話は今から20年前くらいの話
まだ、スマホもありませんし、SNSと言ってもmixiなどのサービスがあったくらいです。つまりは何が申したいか、時代は異なっていて今では動画でも勉強できる、スマホもある、SNSもあるしなんならAIもあるからこそ、そんな苦労はしなくてもではないかと言われるかもしれません。
しかし、自己の深化をのぞいてみると外部における便益性の道具の拡張はあくまでも自分の外にあるものであり"自分"ではないということであります。
これを勘違いしてはいけないということです。
これらを使って自分は何を創り続けているのか、何ができるようになったのか
何を持っているということが大事なのではなく、何をすることが大事なのでしょう。
飲まず食わずして何かに没頭する
それを良きものとして取り扱うかどうかは別とします。
何もそれを美談としてやっている感を出すことをよいとすることもないでしょう。
しかし、自分が何かをしたいと考えた時はその必要性が出てくるということがあるということは覚えておいてください。
そして、自然とそうなってしまうくらい打ち込めることを探すことも大事なことであると思います。
"苦労"とはどのような形であれ、人はするものですから