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多様性だの言論の自由だといいますが、そのほとんどは騒音の自由

現在においては何と言いますか、人さまが決めた物言いを盾にしてしか自分の言葉の自由を保証できない方々が多いように見受けられます。う
やれ、多様性だの言論の自由だのと言いますが、テレビのワイドショー、SNSなんてものはもってのほかで唯の罵詈雑言、騒音の自由と換言するほうがよいのではないかと思うのです。

結局、人を貶めることが目的でありまして、それをやる事で自分の存在みたいなものを確認していく作業をやる方々がおります。
まぁ、何と言いますか、非生産的な営みなのですが人ひとりの気分を変えられるというかそういう趣味は悪趣味のほかでもないということは大抵の人は気づけるはずなのですが中には自分は本当にいい事をしていうなんて思う人もいるのです。

こんな事をいきなり書いた経緯と言いますと、オリンピックでの誹謗中傷を見ているとなんといいますか悲しくもなってくるのです。
この悲哀の対象となっている人たちは「ただの何者でもない」人です。
別に何かをしなければ立派ではないということをいうつもりはありませんが、その自分が生きる理由なものはなくてもいいのでしょうけど、ミッションみたいなものがあるとそれはそれで、「孤独」だとか言われる人たちも自己の内発的な動機から多少はマトモにもなるのではないかと考えるのです。

いや、この上から目線は何なのだと言われれば、そうかもしれませんがこの幼稚な社会のコミニケーションをどのようにすれば解決できるのか
それはAIなどによって補正される人間らしさの消失からはじまるのかもしれません。
この不快感を与えることを人は人間らしさといい、この人間らしさはAIなどで補正され不快感の解消となるのであればこの世界はどのように変わるのか
そんなことを考えてもおもしろいじゃないですかというお話し

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