切り取り線
風のように1か月健診が終わった。
1か月健診とは、産後1か月の母体のために必須で受ける必要がある健診だ。生まれた子供のほうにも同じく必須で存在するものだ。
(もうちょっと手前のことについてはまた改めて記録しておくつもり)
「じゃあこれでもう卒業になりますね。育児は大変だと思うけど無理せず頑張ってやっていってくださいね」
最後の産科受診は病院側の都合でものすごく慌ただしかった。慌ただしい中で規則正しく伝えているであろう言葉に「ありがとうございました」と返す。
もうこれで、産科、としては来ないのだろう。
子どもを産んでからだろうか。
最後になるだろうなと思う人との出会いと別れに削り取れない程度の執着が自分の中で生まれたように思う。
「この出来事自体が」「この人との出会いが」「この別れが」人生最後なのだと。
まだここにいたい、離れたくないとしがみつこうとする自分がいる。
産後1か月を過ぎたら危うい体調と神秘の新生児と過ごす産後でもない、よくも悪くも特殊な状況下ともいえる妊婦でもない、のだろうか。
特殊でありたいわけではないけれど、私のこの状況を名付けるものがなくなっていく。
社会から切り取られた家の中にいる赤ちゃんと私から、社会的な名前さえ消えていく。誰にも気にされることもなくうもれていく。それはごく普通のことであると思いながらも、それが怖かった。
「普通」に戻ったら、あとはこの命を折りたたんでゆく日々なのだと、命の端っこを手にとる。
そんなことはないのだろうけれど、なんなら今だって早朝のいまのうちと急いでパソコンを開いている。2人の子が起きたら私はもう座ってる時間もあまりない。
体感としては全然死にゆく消えゆく失いゆく、という目に見えぬ感覚の段階ではないのだけれど、一つ一つをやり終えていくこの感じではなんだかナーバスになってしまうのだ。
今の私のひとつひとつは、消えてゆくもの。
それでも儚くはなくて、きらきらと目いっぱい輝いているものたちが足元でころころと転がり、きらきら輝いたまま私にはいつか景色になっていくのだ。
私の足元にあるそれは、切り取り線のような節目だ。うっすらとしていてまるで雪の足跡のよう。私は立ち止まって、このキーボードで、文字で、線を引いていく。
少しの遠くが見えそうで、目を伏して。