『ドライブ・マイ・カー』を短編小説と映画それぞれで味わう
映画『ドライブ・マイ・カー』を見終わり、余韻に浸って振り返る。脳裏に残ったセリフは何気ない「沈黙」への言及だった。
ー沈黙は金ですからー
なぜこの言葉が響いたのか、久しぶりのnoteで文章を残しておきます。まずは全体から眺めよう。なお、一切のネタバレを防止したい場合は読まないことを推奨いたします。
さて「ドライブ・マイ・カー」は村上春樹の小説『女のいない男たち』に収録された、複数の短編から成る一つの作品。
世界の映画祭で怒涛の賞ラッシュを続ける濱口竜介監督が、あの短編をどのような演出で3時間の長編へ仕上げたのか、興味津々の鑑賞だった。
「あ、小説とちがって車の色が黄から赤に変わってる!」だとか「別の短編エッセンスも盛り込まれている!」だとか、映画化アレンジに際する発見もつかの間。
気が付けばスクリーンに投影されたキャラクターたちの人生を傍観というか観察している179分。上映時間ほど長く感じさせないし、さっそくもう一度観たい。小説以上に大胆に取り入れられた『ワーニャ伯父さん』は頭に入れておくと、もっと楽しめる気がする。
分かり合えなさ
小説は、残された者が葛藤しながらも導く「赦し」に重きを置いている。そして映画は人間同士の「分かり合えなさ」を描いていると感じた。
それは車内での登場人物たちの語りによって炙り出され、劇中の演劇における「演技」を通じて伝わることの本質に迫っていく。
たとえば家福とドライバーのみさき。ふたりの心理的な距離を縮めた「共鳴」は、家福は奥さん・みさきは母親を亡くした表面的な境遇や、家福が亡くした娘とみさきの年齢が同じだった偶然だけではない。そこには分かり合えなかった、しこりのように残る悔恨が共通していたからだ。
家福の夫婦はお互いが俳優と女優。妻の浮気に確信を持っても彼は踏み込まなかった。最後まで演じ切った家福は妻の病気に気が付けず、夫婦生活は思わぬかたちでピリオドが打たれる。
妻を理解しきれなかったと悔やむ家福。こうした感情は役者夫婦という文字通りの職業病なのかというと、じつは普遍性のあるテーマではないか。
ゴフマンのドラマツルギーでいえば日常生活においても誰もが役割を演じているし、事あるごとに仮面を付け替えている。被った仮面が剝がれなくなってしまった人だって、きっといる。
仮面を肯定し、分けられないとされる個人を「分人」ととらえた平野啓一郎の分人主義に共感した人も少なくない。分かり合えなさは、娘のみさきと水商売をしていた母親の間柄はもちろん、観客の誰にでも当てはまる。
残された者の宿命
浮気相手という点において限りなく黒に近い役者・高槻もいわば残された者。家服との妻との具体的な描写はなくとも何かしらの後悔が引力となって彼は家福を追って広島に現れる。
高槻が後半、あるきっかけで悟る。そして彼が残された者たちの宿命を語る一幕は、家福が劇中演劇の練習で生まれた奇跡的な局面を指した「何かが起きていた」という言葉が似合う。
小説よりも高槻役の設定が若いと若干の違和感から入ったのは否めない。ただ、終わってみれば高槻役は岡田将生しかあり得ない。そう思わせるほどの好演だった。ちなみに『ワーニャ叔父さん』の配役においても岡田将生が背負う違和感は通じている。
小説の高槻の言葉を借りれば「どんなに良好な人間関係であっても人はみんな同じように盲点を抱えて生きている」。そんな盲点であり、分かり合えなさは言葉のコミュニケーションを重ねることで解決できると一般的には考えられている。
※そういえば、かつて岡田斗司夫は話ベタな人は「発する言葉の数をとにかく多くして相手に意図を汲み取ってもらおう」とアドバイスしていた(的確だと思います)。
しかしその上で、そもそも言葉には一定の抽象性があり、言語の構造上、ディスコミュニケーションは逃れられないと割り切った方がいいのではないか。コミュニケーションには常に「ディス」が付き纏う。
言葉だけがすべてではない
脳裏に浮かんだ「沈黙」にようやく戻る。このセリフは映画オリジナルのキャラクターである演劇祭関係者のユンスさんの言葉だ。
ユンスさんは(劇中演劇のオーディションにも参加する、というかソーニャ役)妻・ユナと韓国手話を使ってふだん会話をしている。
彼は、家福とみさきを自宅に招待して食事をふるまうなかで、正確な文脈は覚えてはいないけれど、ふと話の流れで「沈黙は金ですから」と言葉にした。
何気ない一つのシーンであることに違いない。しかし、優しいキャラクターのユンスさんがもらした一言には、分かり合えるために無理に言葉にして踏み込む必要性もないと、家福やみさきをまるっと包み込むように肯定していると感じた。
英語・韓国語・日本語と多言語を話すことができ、必要に駆られながら手話のコミュニケーションツールまでを自在に使いこなすユンスさんが沈黙のメリットを語る。
言葉だけでは伝わらず、また言葉だけに頼る必要もないことは、多言語と韓国手話までを取り入れる演劇『ワーニャ伯父さん』で見事に昇華されるのも見どころだろう。
この映画にはさまざまな琴線が張り巡らせてあり、どれに自分の心が触れるのか本当に色々だと思う。どれも正解だし、また3時間というスケールに尻込みする方がいるとすれば、それはいったん忘れてほしい。
困難を乗り越えて無事に演じ終わった家福と、ドライバーみさき。ふたりの人生は今後も続いていく。ラストシーンの舞台は韓国。赤い車を運転するみさき。ユンス夫婦との付き合いが持続している示唆など含めて、一抹の希望を観客に照らしてくれる。
22年1月時点でまだ劇場公開中。179分の映画に臨むにあたって事前のトイレは欠かせません。小説と映画、どちらが先でも良いけれど、ぜひ両方を味わうのがオススメです!