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映画「すばらしき世界」に描かれた世界は素晴らしかったのか?

このタイトルは皮肉なのか、それもと文言通りなのか?

映画「すばらしき世界」をご覧になった方は、この命題(?)について思いを馳せられたのではないかと思う。

人生のほとんどを「塀の中」で過ごした主人公「三上」が、現代社会の不条理に憤りながらも、娑婆で生きていくために、なんとか折り合いをつけようと、素っ頓狂でありながらも奮闘しながら生きる姿が描かれているこの物語。私の答えは「すばらしき世界だった」である。

誰も、しばしば「世界にひとりぼっち」でいるような気持ちに襲われることがあるのではないかと思う。物理的には一人ではない。家族があり、友人があり、恋人がいる。それでも孤独は時折やってくる。

果たして、どれほどの人が「本当の自分の心うち」を知っていてくれるのだろう、そう思うのだ。

私たちには社会生活を送るために、自己認識をするために「役割」を持っている。そして、残念なことに、その「役割」のために、私たちは「在りたい姿」より「在るべき姿」に焦点を当てがちになる。個人の考えや感情よりも「●●として」の在り方を優先する。

そして、「役割」の「あるべき姿」と「在りたい姿」にズレが生じるほど、「あるべき姿の役割」を演じる時間が長くなるほど、私たちは違和感を感じ、時に苦悩し、最悪の場合は「壊れる」。

三上は子供時代に母親に捨てられたことを認めたくない。そして、子供という「役割」を演じきれなかった穴を「在りたい姿」に投影しているように思える。自称「一匹狼」。その思いが強くなるあまり、物事の背景を多面的に想像できない。こんな人が傍にいると、まぁ、面倒くさいだろうと思う。

しかし、この物語に登場する「三上に関わる人々」は限りなく優しい。
「なんでもかんでも自分で請け負ってたら、身が持たないよ」
「逃げる事が必要なときもあるんだよ」
逆切れする三上に「今日は三上さん、機嫌が悪いんだなぁ」。

自分定規での「白か黒」しかない三上に「自分ができる範囲での精一杯の心遣い」を行動で示していく。社会での「役割」を彼に与えようとする。役割を貰い、三上は初めて社会や人との関わり方を知っていく。

在りたい姿とあるべき姿でのバランスを保てるようになり、そこで初めて気づくこともある。

この世界は自分が思うようにはならず、期待通りでもない。自分が見ている世界は、この世界の一部分でしかない。

孤独に生まれ、孤独だと思いながら「一匹狼」に準じて生きてきた三上の人生の最後には、彼の存在を尊んでくれる人々がいた。

素晴らしき人生ではないか。

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