【翻訳】バラティンスキー(3)
詩の翻訳です。ロシア文学で「金の時代」と言われる19世紀前半を代表する詩人、エヴゲーニー・バラティンスキーの3回目。
囚われ人が自由を望んだところで何になろう?
見よ、川の水は不平もなく
定められた岸辺を、自らの河床に沿って流れ、
荘厳なるトウヒは、移動の術もなく、
育った場所に立ちつくし、天の星も、――
未知の力に引かれ所定の道を行くではないか。
さまよえる風とて自由はなく、
その飛翔する呼気にも法則がある。
我らとて、自らの定めに従い、
反抗の夢を捨てるか、忘れるかするなら、――
賢い奴隷が、聞き分けよく、
自分の望みを、自らの運命に従わすなら、
我らの生も幸せに、穏やかになるだろう。
ばかな!我らにこの熱情を賜るのは、
他ならぬ神の意志ではないか。その声をこそ、
我らは熱情の声の中に聞くのではないか。
ああ、我らにとって生は重荷だ。胸の中に強く波打ちながら、
狭い枠の中に閉じ込められる定めとは。
[解説など]
少し風変わりな詩です。詩の前半では、自然界を支配している法則性を観察し、自由を願うことの虚しさ・諦めの必要性を説くかのようですが、一転、「ばかな!」以降、前半の立言に自分で反駁し、情熱こそが神からの賜物であるとしてこれを擁護したあと、ままならぬ生の苦しさを嘆いて終わります。一見、自家撞着しているかのようですが、生涯の間、さまざまな考えの間で揺れ動き、もがきながらも探求をやめない人間という存在が、一篇の詩の全体によって巧みに表現されていると言えるでしょう。バラティンスキーは220年前に生まれた人ですが、人間は今でも本質的には全く変わっておらず、多くの現代人もこの詩を読んで共感を覚えるのではないでしょうか。詩が嗟嘆に終わっているにもかかわらず、印象がそれほど重苦しくないのは、詩人が「運命」という言葉を諦めのための口実にはせず、あくまで人間のありようを深く見つめようとし、存在の重荷をも引き受けて生きようとしているからではないかと私には思われました。皆さんはどう読まれるでしょうか。
7~8行目、「さまよえる風とて自由はなく、/その飛翔する呼気にも法則がある」の原文は、「Бродячий ветр неволен, и закон / Его летучему дыханью положен」で、「法律が定められている」と読むこともできるので、一見自由そうに見える風にも法則性があることを述べるだけではなく、法律という枷によって自由が奪われているというニュアンスも感じられます。翻訳には盛り込めませんでしたが、重層的なイメージが見事です。