ミシンの授業と「私」のありか
時々、ボランティアでミシン授業の補助に出かけてます。
近隣の小学校では、10〜11月にかけて5、6年生がミシンの授業でエプロンを制作することになっているそうです。
もともと裁縫は好きな方。でも最近は、雑巾も巾着袋もなんでも百均で揃うので、わざわざ作るのもなあ….と思ってしまい、我が家のミシンも埃をかぶって寂しく思っていたところ。
こんなところで趣味が役に立つとは…人生何が何の役に立つかわからんもんですね。
というわけでミシンの授業。
一つの授業に3人のボランティアが入って行われます。
授業では、下糸からまって出てこない事件があちこちで勃発し、「引っ張っちゃダメだよ〜」「こういう時はボビン取り出しちゃえばいいから」…と一緒にやりながら、私としては趣味のひとときを、ほっこり過ごしました。
小学生たちを眺めていると、珍しいミシンの存在に少しだけ浮き足立ち、
仕組みはよく分からないけど、「なんか糸出てきたぞ!」とちょっとワクワクしながら、言われた手順を守ろうと奮闘しています。
友達同士で教え合ってみたり、「お前早すぎ!!」とかって騒いだりする子どもたち。なかなか楽しそうです。
そんな子たちを眺めながら、
「私もエプロン作ったなあ」と思いました。
だけど、ミシンの授業がどうだったか、全然思い出せません。
ボランティアの人なんて来たかなあ、ミシンの使い方ってどうやって覚えたんだっけ…。
皆さんは、覚えているでしょうか??
最近は日常的に小学生たちと話をするので、
自分にもあったはずの子ども時代を思い出そうとしてみることが多いです。
だけど、覚えていることは断片的だったり、漠然としたもので、実はほとんどの事は覚えていないなあ、と気付きます。
毎日遊んだ空き地の景色とか、友達と大喧嘩をしたこととか、思い出せることはあるけど…。
学校で、友達とどんな会話をしたとか
それでどんな気持ちになったかとか
授業中に何を考えていたかとか
どんなことをして何を話して何を考えていたか。
忘れるのは当然のことなのですが
改めて考えると、いかに人生が”過ぎ去っていくもの”かを感じます。
そして、
遠い昔、私にも子供時代があったはずだけど、
実際、それは私なんだろうか・・・と思うことが実は時々あります。
だって、33歳の私とは、物理的にも精神的にも全く違う存在のはず。
うーん。
だけど、確実に言えるのは
自分が全く覚えていない出来事が今の私を作っているということ
親に言われたことも、友達に言われたこと、その時の感情
人生で覚えていることなんて0.00000001%もないかもしれない。
でも、その全く覚えていないこと。
例えば
友達との会話
家族との会話
自分が言ったこと、思ったこと、
頑張ったこと、取り組んだこと
頑張らなかったこと、やらなかったこと
その積み重ねが「私」というものなんだよなあ。
全部忘れてるけどそれが私ということ。
多分これは間違いないんだろうなって思います。
仏教で、四顚倒の妄念という教えがあります。
人間が抱く4つの間違った考えを言われたもので、
その中の一つが「我」というものです。
固定不変の「我=自分」があると思って私たちは生きているけれど
実際には、ない、ということです。
子ども時代の「我」は、明らかに、33歳の「我」とは違う存在です。
それどころか、一年前の私と今の私でさえ、考えていることも望んでいることも全然違う。
確かに固定不変の自分なんてないなあ、って思います。
だけど、頭の中では、明日の自分や10年後の自分は今日の自分と全然違う存在、なんて思えない。過去の自分と今の自分は全然違うとも思えない。
(ほとんど覚えてないくせに。)
だからこそ、無闇にこだわったり、頑固になったり、根に持ったりして苦しかったりするんだよねぇ。
2,600年前のインドで「無我」を言い切ったブッダはやっぱりすごいと思う。顕微鏡もないし、細胞の観察もしてないのになあ。
じゃあ、私ってないんですか?というのが気になるところ。
仏教では、この世に存在する物事は、すべて因と縁によって成立していると教えます。
自分が考えたこと、言ったこと、やったことと、その時の環境が結びついて結果として私の存在がある。ということ。
だから「我」は私たちが考えるように不変のものではないけれど、やっぱり周りの環境と結びついて存在する「わたし」という何かはあるんです。
それには、記憶や感情ではなく、これまで自分が考えたり言ったりやったりしてきた「業(カルマ)」が大きく関わります。
これ以上は長くなるのでこの辺でやめときます。
というか、難解すぎて、私も深くはわかりません・・・。
(無我を理解できたら悟りの境地。笑)
そんなわけで、子どもたちを観察しながら、深すぎるブッダの教えに唸っている私でした。
目の前の5年生たちは、あと20年後、この授業のことを覚えているかしら。いや、覚えているはずがない。
その後使ったエプロンを使って日々お料理すれば、柄くらいは辛うじて覚えているかもね。
だけど、この授業ひとつも、子どもたちにとって大切でささやかな人生の一コマ。そして、私自身にとっても同じこと。
これからも、今まったく意識していない、たぶん明日には、1時間後には忘れているような一つ一つのことが、自分の行く道を作っているんだよなあ。と。
そんなことを考えながら、次回も楽しみに小学校に出かけたいと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました。