逗子ベーダンタ例会 三種の喜び
昨晩の唱題行入門会(池上本門寺)は、多忙疲労のためお休みさせて頂きました。本日は湘南逗子にて「二つの幸せ」について学ばせて頂きました。
幸福(幸せ)には正しき幸と、悪しき幸(他者への加害を伴う)がある。現実の幸と、想像上の幸にも分けられる。
受験・職業・出産など、多くの苦を伴う努力の後に、幸福感を得られる。歳を重ねるに連れて、人生には幸より苦のほうが多く感ずるようになるが、それでも人は幸を求め続ける。
動物が誘惑の罠に嵌まるように、私達は欲の感覚に執着しがち。想像上の幸(期待)と、実際の幸の乖離を識別できれば、感覚に執着しなくなるだろう。
愛を感じられず自殺に走ろうとする人の事例が示すように、期待が叶わぬと挫折感を味わう。感覚的快楽は一時的で、時と共に弱まってしまう。男女の愛慾なども同様。「愛の裏には恨みが隠れている」(心理学者)と言われるように、このような愛は恨みに変わり易い。快楽を感じた後には反動があり、快楽に執着すれば病も多い。しかも、快楽の対象にはすぐ飽きて、別の対象に移るので混乱・不満になる。欲望は火の如く燃え、満たしても消えないという『マハーバーラタ』の教訓。消火には水が必要。
私達が期待する物理的幸せは、それほど実現しないと知る。本当の幸せを望み快楽を求めても無に終わる、その理由を考える。それは、自分の中でなく外に幸があると思っているから。外的・一時的な快楽ではなく、内在する絶対的永遠を追求すべき。
欲望は、どんなに満足させても終わらない。多くの人は、それを死ぬ前に気付く。これが無知である。
皮肉な事に、聖典を良く読み、このような講話を聴き、理解しているはずの人々が、依然として外に幸を求めている。教えを知らないのではなく、正しき目的・手段を知っているはずの多くの学者・信者も、内在せる至福に向かえていない。これは、大事な問いである。
『神歌』18章によると、一時的・物理的・外的な幸福と、サットワ的・内的な幸福とがある。聖ラーマクリシュナは、神を讃え、神に仕える幸せを説いた。
正しき目的・方法を知るだけでなく、そのための行動が必要。快楽の問題、そこから生じる悪果・デメリットを常に識別し、快楽を求めぬよう識別する。
放棄するだけでなく、それによって空いたスペースを神(瞑想・御名・讃歌など)で満たす。神を愛し、神に集中し、最終的には「私達の中に神が存在する」という永遠の至福を悟る。それが、ギーターに説かれるサットワ的幸せである。
実際にギーターを開き、甘露・毒薬・怠惰的幸福について述べられている箇所を拝読しました。
昼食後、私達は早退しましたが、午後の講話も映像配信で拝聴できました。ありがとう御座いました。
合掌
なお、夜は梨木つむぎ様のバンドワンマンライブ(渋谷)を観覧しました!