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講談の魅力

神田松之丞改め神田伯山。言わずと知れた講談会の寵児である。私も俄か講談ファンになったのは、彼の講談を聴いてからだ。古典と言われるものは、すべて手本があり、それに倣って講談師が話す。つまり教科書を読むようなものである。ところが語り手によって個性が出るので、まるで異なる話を聴かされたように思うことがある。

神田松之丞が世に出る前の講談は、寄席の前座的存在のように一般的には思われていたところがある。これは彼自身も高座にて、年配の男性が語るイメージを払拭したいと発言していた。

実際に高座を見ると、落語とは異なる世界観がある。会話の遣り取りを楽しむ落語に比べて、講談は場面の背景が見えてくる。そうラジオのように声から想像する感覚に近いものがある。無論、想像は個人が自由にするものだが、彼は何故か観客に同じ風景を見させることが巧いのだ。だから、そこに感情が生まれ、泣いたり、笑ったりと揺さぶられるのだ。また彼の声が講談向きであると思う。声が通るので、聴きやすいのだ。それに東京生まれなので、江戸弁が板に付いている。これは地方出身者には中々出せない魅力である。江戸弁は、べらんめえ口調であるが、言葉のリズムは地方の方言で育った者には難しい課題で、例えば関西人が関西弁を標準語に直すと違和感があったり、その人物の魅力が損なわれることがあるのと同じことなのだ。

本人は100年に一人の天才との触れ込みであるが、こうした人材が100年に一人では、講談会も衰退を免れないだろう。野球と同じで、スーパースターだけでは試合に勝てない。ホームランや奪三振は野球の魅力のひとつに過ぎない。送りバントや犠牲フライを打ち、盗塁にて進塁できる人材を育てる必要がある。つまり今の講談界には、そうした技能を有する選手が不在なのだ。

そうした意味では、“名選手は名監督ならず”とのセオリーから、神田伯山は育成よりも、自分の芸を磨くことに専念していただきたい。選手層を厚くして、チーム力を上げることに努めていただきたい。

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