誰かに読んでほしいと思って書く文章は読まれない
「よくブログ続けられるね」
よく聞かれるけど、僕自身は続けているという感覚はあんまりない。
「文字媒体の集客」についても結構聞かれることがある。
(確かに周りでブログを書いている人の数、減ってきてる感覚はある~)
動画が情報収集やファン化の主流になっているし、僕も文字媒体以外で色々とやってはいる。でも、文章にしている時が一番自分らしい気がする。
これは自信があるとか文才があるということではない。
読み手として、読めば読むほど「この人みたいに書いてみたい」と思う人はたくさんいるし、実際に真似た文章を書いてみた事もある。でも、そんな時には決まって読まれることが少なかったり、自分自身もしっくりこない感覚。
独立したての頃は、とにかく読んでもらわないことには自分を知ってもらえない。そう思っていたので、名刺代わりと言わんばかりに「ブログ読んで」と言い続けていた気がする。実際に名刺にもQRコードを載せていた。
でも、名刺を配る数と読まれる数は比例しなかった。(noteの機能でアクセス数が分かる。誰が読んでくれたかは分からないけど)
会社員時代には、名刺を渡すだけでどこの会社の人間か分かるくらい、いわゆる大企業の看板を持っていたので「こいつ誰?」の壁を一瞬で壊すことが出来た。何をしているのかを説明するまでの導線作りが自然と出来上がっていた。
それが今では、カウンセラーや対人支援の仕事をしていてかつ個人事業主。あの頃のでっかい看板は持っていない。怪しまれることも多々ある。何か面白そうなやつと思ってくれれば御の字。
この状態だもの、ブログが読まれないのは当然。
「読んでほしい文章が届かない」
開業して半年以上、無収入になった。
さすがに焦った。家族も家も、たくさんの「○○しなければ」のマインドに押しつぶされそうになる。読まれていたものがただの消耗品になっていく。
自分のブログを読み返したり、名刺を作りかえたりしてみた。それでも結果はほとんど変わらなかった。
この辺りの苦悩の日々については、また別の機会に書こうと思うけど、
結論はこれだった。
「読んでほしい相手は誰?」
例えば、誰かと会話をするとき。会話の対象者は、目の前にいる人になると思う。話しているのに違う方を向いていたり、会話の内容がズレていたりしたら、信頼関係など生まれないしただのヤバいやつだ。
こんな当たり前のことが、文章にして発信するとつい忘れてしまう。ただ、これが短い一言だと受け取り方が変ってくる。例えばX。つぶやきレベルの発信には、「含み」や「推測」が生まれて、受け手が勝手に想像して読んでくれる。たとえ発信者が深い意味を込めていなくても、受け取り方の幅が広がる。
じんわり伝わってくる文章と比較して、広範囲に広がっていく。
これがブログや本などの長文を扱う場合。「読む」ことへのハードルは高くなる。時間を使って読むわけだし、ながら作業が利かなくなるので集中力も必要になる。
読み手からすれば、無意識にでも「何か」を期待して「読む」という行動を選んでいる。
それなら、広範囲にまずはブログを書いていることを知ってもらえれば、自ずと読まれる機会も増えていくだろうと想像していた。が、読まれなかった。
これははっきりと分かったんだけど、「ブログを書いている」ことと「ブログを読む」ことの間には期待値の差がある。(ちょっと補足すると、今回の話で有名人や著名人は別問題。だってそういう方の本や文章って、読む前からどんな人なのかを知ったうえで読むでしょ。)
ブログを書く時の前提として、読み手が読んだ後に感じてもらう「お土産」を考えて書く必要が出てくる。
内容は趣味の話でも、子供の話でも、言ったら身内の不幸話でもいいわけだ。ただ、読んでもらった後に共感してもらいたいことや、行動変容につながる「お土産」を付けてあげること。冒頭で「つまんない」と思われたら最後だし、途中で置き去りにするような「誰得?」の話をしても読み手は戻ってきてくれない。
そうやってじっくりと考えて書いていくと、ぼんやりにでも誰に読んでもらいたいのかが浮かんでくる。顔が浮かぶほど鮮明に描けるときの文章は、濃度の高い文章になったりする。
つまりこの時点で、「誰かに読んでほしい」ではなく「読んでもらいたい相手」は決まってくる。明確に届けたい相手に向けた文章と、何となく書いている文章では、読み手の受け取り方も変わっていく。多くの人に同じ共感を届けようとするのは不可能だ。
たくさんの人に読んでもらうとするなら、誰か一人に届けたい文章を心がける。そうやって書いていく文章が共感を生み出し、またその共感が増えて読まれるようになっていく。
多くのSNSでも同じことが言えると思う。
それともう1つ。これは色々な講話やセミナーに参加してみて気付いたことなんだが。
どんなに素晴らしい内容だったとしても、誰に届けたいのかがブレてしまうと、受け手の行動変容には繋がりにくい。涙を流してもらう講話が素晴らしいかと言えば、案外そうでないと思う。
あくまで僕の場合と、ここでも前提条件を付けさせてもらうが。
誰に届けたいのかが明確な講話を聞くと、ワクワクして前のめりになってしまう。「自分もやってみよう」と思うようになったり、すっかり話し手のストーリーに入り込んでいる。
心に刺さる講話ってそういうもので、それは文章でも同じこと。
「誰に?」っていう部分が書けてしまうと、あっという間に独り言やただのメモ書きになってしまう。ただの文章が、誰かに届く文章にしていく為に、まずは誰に読んでもらいたいか。やっぱりここだよなぁと改めて思う。
この作業って尊いし、文章発信やリアルなおはなしが今も残り続けるのも理解出来る。
普段どんな風に考えて書いているのか、ネタばらしみたいでちょっと恥ずかしい気持ちになってきたので、今日はここまで。
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では、今日も良い日を。
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