目標がない方が学びは続くんではないの? と思っている話
こんにちは。年明けになり、新たな学びの目標を設定している人も多いと思います。
「英語を勉強してもその先に目標がないから続かない」という声をいただきました。
ふむ。
実は私、さしたる目標がないのです。
英語を本格的にやろうかなと思ったのは、「たまたま、『ボヘミアン・ラプソディ』が面白くてチャンスかなと思ったから」。
今大学院にいるのは、本を書いて「教育哲学や歴史を知りたかった」から。
先日、ダンスするように生きる、の方が色々長続きする、と話したのですが、勉強も同じだと思っていて。
ただの惰性と楽しさで続いてます。
そっちの方が長続きするんじゃないかなーと思うので書いてみます。
山登り型学習の難点
私も「山登り型」学習をしたことがあります。
高校時代の受験勉強とか、資格受験とかですね。
けれども、後から振り返ると、私の場合、「目標を持って学ぶ」はあんまり身になってないです。
資格受験で勉強したことなんて、もはや100パーセントを忘れています。あまり身にならないように思うのです。
「この山を越えたら終わり!」みたいな勉強は、私の場合、短期間しか続かないのです。
一方的に知識を詰め込んでくるような予備校はどうしても無理でした。
一方、自分で興味を持って覚えたことは忘れないです。
「これ言いたいな、なんていえばいいんだろ」と思って調べた単語とか。
登場人物の印象的な言葉とか。
友達が使ってて「かっこいいな、これ使おう」と拝借した言い回しとか。
受験勉強も我流で「どうしたら楽しく覚えられるかな」と考えました。「苦しい」ものを「楽しくする」ことの方が重要なんではないのかなぁ。
「科目中心型」の欠点
大学院で教育哲学には大きく2つの流れがあることを学びました。
1つが「科目中心型」もう1つが、「生徒中心型」。
カリキュラムに合わせて興味とは関係なく授業が進行していくのが「科目中心型」。
子どもの興味・関心に合わせて、「興味が出たとき」に教えるのが「生徒中心型」。
「生徒中心型」を「進歩型教育」と呼びます。
国際バカロレアの小学校や、モンテッソーリなんかですね。
文科省も「個別最適化された学び」とか言ってますよね。
「実は興味が出たときに楽しんで学んだ方が、頭に入る」という学説があるからです。
「科目中心型」の問題点。
それは、「目標(例・大学受験)」を目指した無意味な暗記により、一生涯、勉強が苦痛になってしまうことなんです。
生涯学習がつらくなってしまう。
「大学に入るために」目標を持って、塾やドリルを真面目にやることの弊害がここにあるのでは?
小さい頃から学習への「ご褒美」が当然であったかもしれません。
「山登り型」学習に染まった人が「勉強が続かない」というのは、当然ではないのかなーと思います。
楽しいと思ってやってないから当然です。
自分にとっての「ボール」を探す
ですから、今から本気で勉強したい人は、頭を「生徒中心型」に意識を変革した方がいいんではないの、と思っていて。
自分にとって「つまらん」と思う参考書やドリルを全部捨てて、楽しいことだけインプットするようにするんですね。
なので、まずは何が自分にとって楽しいのかを探す必要があります。
「生徒中心型」の教育には問題点もあって。それはこの「やり方探し」に時間がかかるってことなんですね。そんなわけで、世界の多くの国の教育がいまだに「科目型」なんです。
私も自分の最初のボール(夢中になれるもの)を見つけるのに時間がかかりました。
「ボヘミアン・ラプソディ」、プログレッシブ・ロック、Netflixのドラマ、などなど。
今は好きなことしかやってません(Duolingoだけはただの惰性でやってます)。
学習したい人は、「生徒中心」の学びの楽しさを知っている人のメソッドで、影響を受けたらいいのかも。
「生徒中心型」ではときにまず「経験」から入ります。
何かを実際にやってみる。
英語だったら、下手でも外国人と定期的に喋ってみる、みたいな感じです。
私は「いきなりアメリカの展示会を取材する」「会社に来るアメリカ人と一対一で話す」からスタートしましたが、当時はハローしか言えなかったんですよ。本当に。
それではまた!
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