「 自分軸で生きることより大切なことがあるような気がして/自尊・他尊の垣根を超える」2023/08/25
私は自分の機嫌を自分でとれる。
訓練に訓練を重ね、とれるようになった。やっとのことで。
ずっと他人軸で生きてきた。
「他人からの評価=自分の評価」なんだとその公式が私をずっと捕らえていた。
苦しかった。
一旦周りと足並みをそろえて生きることを諦め、自分のテンポに耳を澄ませ、沢山の本を読んで、沢山の素敵な人と会話を重ねた。
そしてなにより、自分とじっと向き合った。
少しづつ他人軸を手放し、自分軸を己の中に貫けるようになった。
他人がなんと言おうと、私は最高で素敵な存在である。間違いない。
鼓舞するとか、言い聞かせるとかではなく、とても自然に静かにじんわりそう思っている。
洗濯を干し忘れてしまう。
ソファでメイクを落とさずに寝落ちしてしまう。
やるべきことをほっぽって数時間YouTubeを見続けてしまう。
時間の管理が苦手で出勤はいつもぎりぎりなってしまいがちだ。
鞄の中は気を抜くとごちゃごちゃになってしまう。
LINEの返信がどうも苦手。
週五日8時間勤務はどうしても続けられない。
人込みでは過呼吸になってしまうこともある。
欠いてるし、傾いてるし、本当にダメダメだ。
でも、やっぱり最高なのだ。
私は誰よりも私の最高な理由を知っている。本当に山ほど。
この量を超えられる人がいるはずないから、他者の私への意見に動じる必要がなくなった。
私を私としてたらしめる要素のほんの一かけらについての評価なのだから、心を大きく乱す必要はないと思える。
私のことは私が一番わかっている。
私のことは私が一番愛している。
私のことは私が一番大切にすると決めている。
この思考が自分のものと自然になじむようになった今、考えることがある。
自分の意志を貫くことで得られることはたかが知れているということ。
限界が確かにあるということ。
自分の意志を貫き、それを叶えていくことは、快感であり幸福を味わうことができる。
でも、虚しさがある、と感じるのだ。
「ぼくたちは誰一人として、この世に意志を持って生まれてきた人はいない。
(自分の意志とは一切関係なく)自分という存在がこの世に命を与えられたことからすると、
自分が自分がとひとりがんばって前にでて主張することがどこかそぐわないことのように感じられるのです。」
印象的だった。
私たちの根本、始まりは、「意志」ではなかったとすると、
自分の意志を頑なに守り、貫くことに強くとらわれるのはどこか不自然なことなのかもしれない。
直感。タイミング。感覚。ご縁。巡り合わせ。運。偶然。他者からの享受。
こういう自分の意志が入り込めない部分も、同じくらい大切にできたらいいなと思う。自分の全体のバランスがもうひとつ整っていくような気がする。
自分の意志というものが無効であるこの分野をどうしても蔑ろにしてしまう。
自分の意志を貫いていくことも簡単なことではない。とてもすごいことだ。
でも、周りから与えてもらえることの方がずっとずっと奇跡なのだと思う。
自分がどれほど願っても望んでも、そこに微かにさえ力を及ぼすことは不可のだから。そこではどんな人も無力になる。
様々な枷が取り除かれ、枠は取り外され、どんどん自由な社会になっている。「自分次第」でどこまでも広がっていくことができる社会に身を置いている。
だからこそ、「周りから与えてもらう」ことの価値は上がるのではないか。大切にすべきなのではないか。
もちろん悪いこともある。どちらかというと悪いことの方にばかり気をとられてしまうのではないか。
蔑ろにしやすい「良いこと」に目を向けて大切にしたいと思う。
「「自分を出そう」と肩肘を張ることも、
「自分をひっこめよう」と無理することも、
一見正反対のことのように見えて、
どちらも自然な状態ではない。」
自然に、なるべくフラットに生きて、享受した者を尊べる人でありたい。
なんてことはない、いま生きていること、それが最大の他者からの享受である。
自分というそのものが、実は他者からの享受であるということ。
命を持つすべてが、順などなく、平等に奇跡であるということ。
そんな当たり前のことに辿り着く。
それに自覚的であれば、他人軸・自分軸を超えた生き方ができるのではないか。