「「世界は贈与でできている/近内悠太」読書記録Ⅱ」2023・08・29
・贈与は届かないかもしれない。贈与は本質的に偶然で、不合理なものだ。そう思えることが差出人に必要な資質である。
・自分の心持次第で、無限に己への贈与を手にできるということ。
「後ろめたさ」は一概に悪いことではないのかもしれない。
自分の番でとどめておくと、自分はよどんでしまうが、次に送り出すことで循環を作り出すことができる。
「贈与は差出人の意図によって規定されるのではなく、受取人に開かれている。受取り人が現れさえすれば、あらゆるものが贈与になる。」
「贈与は受取人に知性を要求する。
過去の中に埋もれた贈与を受け取ることのできた主体だけが、つまり、贈与に気づくことのできた主体だけが再び未来に向かって贈与を差し出すことができるからです。
その主体は「もし私が気づかなかったら、この贈与は存在しなかった」ということをいたいほど理解しています。つまり。「この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない」と直覚できているからこそ、今から差し出す贈与も他者へと届かない可能性が高く、届いてくれたならこれほど素晴らしいことはないとわかっているからです。
この贈与は私のもとへ届かなかったかもしれない。
ということは、私がこれから行う贈与も他者へは届かないかもしれない。
でも、いつか気づいてくれるといいな。
かつて受取人だった自身の経験から、そのように悟った主体だけが、贈与が他者に届くことをまち、祈ることができるのです。」
・贈与の意味が確定するまでにはタイムラグがあり、はっきりと明確に図るとも不可能なもの。
・贈与は金銭を伴わない、交換不能なもの。
・現在を生きる私たちは「意味の欠如」を恐れ、無益と思えることを極端に避ける。
意味は絶対に欲しいものだし、自分にとって+に働くものしか興味がなく時間を費やすことができないということ。すぐに結果を欲しがるという傾向。
?それなら昔は意味のないこと、無益な事、マイナスな結果もはらんでいる物も引き受ける機会が多かったということなのだろうか。
・もしかするとの大きな幸福と、絶対の小さな幸せを前にすると、後者を選びがちなのかもしれない。
・あやふやな未来、見ず知らずの人という宛先を思い描く想像力がなければ、自分の一挙手一等測を無駄で無益な労力と感じてしまう。(→ニヒリズム?)
自分のもとから広がる波紋を繊細に詳細に想像できる人でありたい。それが祈りなのかもしれない。
どんな行動もその先を考えることができたとしたらとても丁寧で美しいものになるのではないか。
美しく良い波として広がってゆきますように。
?例えば贈与って何だろう。具体的に例が欲しい。
・「待つ」ことが、「祈る」ことができなくなっている。(ランディさんの言葉に通うものがある。自ら~)答えがはっきりしているクリアな世界を求めて生きているのかもしれないな。「自分の贈与がどこかに届くのを待つことも、それに賭けることも不可能になりつつある。
宛先に届くことを待つ、届くことを賭けるとは、つまり祈るということです。
論理に慣れ親しみすぎたせいで、贈与に祈りを込めることができなくなっている。」
・この作品は私にとって少し抽象的であり、読み進めても靄が晴れない印象がある。頭を使う作品であると感じる。
・色々な事を考える。
ゴールはどこに置くか。
幸福は何か。
無理して納得させるように生きることはせずにいたい。
精神的にも、物理的にも、豊に在りたいと思う。
豊かさとはなにかを考える。
自分の抱く夢とか、理想とか、そういうものも、言ってみれば今まで自分で集めた、受け取った情報から生成された物だということ。それを頑なに守り抜き、貫くことは果たして己の幸福へと繋がっていくのだろうか。
100年人生として、二つの意味で豊かであり続ける道を、予期せぬことの連続であることを忘れずにいる上で、見通しよく考えて生きたいと思う。
なるべく沢山のカードを有しておく。一つ一つのカードを少しづつ少しづつ磨きをかけておく。唯一無二性を作っていく。