「 「真理」は人を助けるのか 」

「真理」果実な根拠によって本当であると認められたこと。
「真理」はいつも一つだ。
強い力を有すると思う。
強すぎて他の何もかにも見えなくしてしまう。

「真理」はいつも助けてくれるものだろうか。
 
私はすべてを一定の枠に閉じ込め、規則的にしてしまう「真理」を知りたいのではない。
そこからはぶれてしまった物事を見つめるまなざしをいつでももっていたいと思っている。
 
「真理は一つと言うよりも、ひとつに定めなければならないことを真理と呼んでいるのかもしれない。
言葉が言葉として流通するためには、特に契約などの厳密さを必要とする行為においては、強い同一性が求められます。
その場面では真理への強制が重要です。」
 
読んでいた書籍の一説だ。
この文にとても納得させられた。
真理があるからこそ、守られ、安心して日々を営むことができているとう事実をあまりに当たり前すぎて忘れてしまっていた。
ひとつの真理として示されているからこその自由がある。
ただ、そこからはずれ省かれ見落とされてしまっている存在が必ずいるということ。
その検討を続けていく必要があるのではないか。
真理に守れれてはいるが、それに安心し、それを疑うことなくただ受け入れ、その物差しですべてを測ろうとすることはしない。もっともっとより良い真理を導く思考を日々していきたい。
 
思い悩み、人生に迷うと、答えが早く欲しくなる。
そして、いつも疑っていたはずの真理にすがってしまうことがある。
何だか心に靄がかかって、上手く進んでいない、もしくは一見スムーズに見えているけれど自分の心は健やかでなく納得できていない時がある。そういうときは決まって「真理」にすがっているときだったりする。その一つの枠に些末な、でも重要な物事を、無視するように押し込めてしまっているとき
だったりする。

「人生」も「人」も規則的ではなく、ずれがあって、傾きがあって、それぞれにジレンマを抱えているということを一番わかっているはずなのに、「真理」にすがってしまう。
 

「真理」の、その裏づけも凄く大切だと思う。
一般的な「真理」に辿りついたとしても、その道のりが過程が何よりも大切だと思う。
受け取ってそのまま鵜呑みにするのではなく、自分の眼で見て、肌で感じ取って、一個一個丁寧に納得していきたい。

「真理」に、守られ、傷つけられ、悩まされ、すがり、生きているのだと思う。


自分が迷って、探って、悩んで、進んでいく中で、腑に落ちるような確かな「真理」のような見つかったりする。
その過程があったからこそ、その真理はとてもかけがえのない、大切な財産になると思う。そして、その「真理」を悩む他者に教えてあげたいと思うようになると思う。

でも、そんなとき、ひとつ冷静になれる自分でいたい。

まず、誰にも確かに当てはまるそんな魔法のような「真理」は存在しないということを思い出す。自分にしっくり、ぴったりくる「真理」も、隣のあの人には息苦しい枠にしかならないことだってある。

選択肢の多い社会で、様々な情報が飛び交って、正解なんてなくって、悩むことが当たり前なのに、人は弱っているときに「真理」にどうしてもすがってしまうものなのだ。
「真理」を語ると、人が集まるかもしれない。
でも、それで己が偉くなったというような、そんな愚かな勘違いは絶対にしないこと。

自分の見つけた「真理」を語るべきか、語らざるべきか。思い悩む。
人を救う可能性も秘めている。
ただ、いつでも傲慢にならないこと。
いつでも、より良い真理を追い求めていきたい。

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