コーヒーはムズカしい。〝試飲〟
コーヒーのサーバーに使えそうなガラスのポットを見つけたので、クリスタルドリッパー片手にサイズが合うか確かめに行くと撃沈に合わなかった。がっかりしたが、アトリエに戻りドリッパーの下駄の部分の直径の小さなものを探すが、メリタのヴィンテージしか相当するものはなく、今度、銀座に行く時はそれを持っていこうと思います。
さて、焙煎人の妻君をしていると日本各地の未来の焙煎人を目指す人や珈琲焙煎が好きな人から「1度試飲をしてもらえないか」とコーヒー豆が届くことしばし。妻君が動かないと(うちの)焙煎は待つばかりということもあって、意欲的に淹れるようにしています。
お手紙が付いてくる場合は、その方の暮らしの背景から焙煎に至るまでの物語や、気になるところを書かれて聞き返されるような内容や、知人を間に挟んで、ただ飲んでやって欲しいなどといろんなシチえーションがある。自分で自分の味に自信がなくなってくるのだろうか?よくわからないが届く。
そもそも、なぜ珈琲焙煎をするのかが重要ではないだろうか?
猿田彦珈琲さんのように最初から組織を意識された入り口もあれば、自分が飲むコーヒーを作り込む人もいれば、私のように運命に定められた人もいるが、やっぱり自分自身が美味しいと思う明確な軸がないと味に芯が出てこないように感じます。
わからないことを分からないまま丸投げしても答えは出ないと同じである。
私はドリップする時に心掛けているのは、角のないまーるい味わいがする京子さんらしい味といわれると嬉しい。よって、焙煎も同じでありたいと思う。