【第0回】プロローグーー【講座】『〈自己完結社会〉の成立』を読む
※同じコンテンツの動画版も作成しました※
皆さんこんにちは。上柿崇英です。
この講座では、筆者が2021年に刊行した『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻/下巻)』(農林統計出版)の内容について、30回程度のトピックに再構成してご紹介していきます。
一般の方でも、そのエッセンスを感じてもらえるように工夫をしましたので、よろしければ覗いてみてください。
今回は、その「プロローグ」ということで、この講座の背景となることについて説明していきたいと思います。
ここではまず、この講座の主題となる著作についての簡単な説明を行った後、筆者がこのコンテンツを作成することになった理由について説明します。
そしてこの講座を開始するにあたって、「私たちは何ものになろうとしているのか」、「人間的理想の矛盾と”生きづらさの理由”」、「生きることの意味と、現実と格闘することの意味」という3点から、同書で筆者が考えたかったことについてご紹介します。
そして最後に、今後この講座で取り上げる予定のテーマについてご紹介していきたいと思います。
○ 書籍『〈自己完結社会〉の成立』について
まず、この講座の主題となる『〈自己完結社会〉の成立』という書籍ですが、これは環境哲学を専門分野とする筆者が、構想で5年、執筆で5年あまりの時間をかけて、2021年に上・下2巻本という形で刊行したものです。
分野としては”哲学”の本ということになるのですが、哲学というと、多くの方は、デカルトであるとか、カントであるとか、いわゆる有名な西洋哲学の偉人の言葉などについて論じた本を連想するかもしれません。
しかし本書はそうした意味での哲学の本ではありません。
そうではなくて、本書では「現代とはいかなる時代か?」という問いから出発して、私たち人間は、科学技術を通じてどのような存在になろうとしているのかということを、独自の概念を用いながら、700万年の人類史のスケールのもとから考察していきます。
そしてそのうえで、私たちが感じている時代の違和感や、“生きづらさ”といったものが何に由来しているのか、あるいは私たちはどのようにしてそれぞれが生きる現実と向き合うことができるのかといったことを論じていくことになります。
そのような書籍なのですが、大変残念なことに、2023年の11月に刊行元の出版社が廃業してしまった結果、刊行からわずか数年で絶版となってしまいました。それを受けまして、現在筆者のウェブサイトでは、本書の内容を誰でも読めるように全文公開しています。
とはいえ本書では、例えば「意のままにならない生」や「存在の強度」といった、200あまりの独自概念が登場してきたり、思想として力のある文体を意識した結果、表現が分かりにくかったりと、テキストだけでは、本書のメッセージが一般の方には届きにくいといったことが分かってきました。
そうした事情もありまして、せっかく刊行した書物を眠らせておくよりも、何とか工夫をこらして、一般の方にもそのエッセンスを感じてもらえる方法はないかと考案したのが、本コンテンツとなります。
また、これまで自らの思想を書物として残した方は大勢いるのですが、「自分の思想が書かれた書物を自分で解説する」という試みを行ったケースはかなりのレアなのではないかと思います。
そうした実験的な試みにチャレンジしてみるのも悪くないのではないか思い、今回実際にやってみることにした次第です。
○ 同書で筆者が考えたかったこと①ーー私たちは何ものになろうとしているのか
さて、ここからはもう少し、本書の内容についてご紹介しておきたいと思います。
先に少し触れましたが、本書の出発点は、「われわれはいかなる時代を生きているのか?」という問いにありました。
皆さんもそのような問いを持ったことがあるのではないでしょうか。例えばこの文章を書いている2024年は、何と言ってもChatGPTに続く生成AIの躍進が目覚ましかったと言えるでしょう。
これまで人間が作成していた文章や画像、動画などをAIがどんどん生みだすようになり、生身の人間と見まがうような会話力を持つAIも登場してきました。
またこうした技術は、日々加速度的に向上しています。ちまたでは、「AIが手塚治虫の新作を作った!」、「Cotomoとこんなことを話してみた!」といった話題に事欠きませんが、こうしたことを無邪気に話していられるのもいまだけかもしれません。
科学技術はこの10数年あまり、他の分野でも目覚ましく進展しています。例えばロボット工学では、大阪大学の石黒浩先生が製作したERICAのように、見た目も仕草もしゃべり方も、生身の人間と見まがうようなヒューマノイドが生まれてきています。
生命操作技術でいえば、すでにゲノム編集は、畜産や水産の分野では広く活用されるようになってきており、近い将来人間にも適応されて、遺伝子治療の道を拓くでしょう。さらに将来的には、サイボーグ技術や脳神経インプラントなどを通じて、もともとの身体の能力を強化する試み(エンハンスメント)や、老いの治療といったものが一般人の間でも話題になるようになるかもしれません。
こうした事例はどのようなことを物語っているのでしょうか。それは私たちがいままさに、情報、AI、ロボット、生命操作などの科学技術を通じて、私たちの存在のあり方そのものが激変していくような時代を生きているということです。
では、私たちはいまここでどのような存在になろうとしているのでしょうか。20年後、50年後、あるいは100年後、私たち人間の未来とは、どのようなものになりうるのでしょうか。
本書では、〈自己完結社会〉ーーあるいは〈生の自己完結化〉や〈生の脱身体化〉といったーーというキーワードを軸に、この問題について考えていきます。
時代というものを問題とする理由、それはこのように目まぐるしく変わっていく自らの時代の現実にひとつの説明を試み、そこにひとつの意味を提案するためだと言えるでしょう。筆者はそれが、哲学の重要な役割のひとつだと考えています。
たとえ抽象的な議論であったとしても、思い切った時代の解釈を行うことによって、私たちには多くの気づきがもたらされます。そしてそのことは、注視すべき問題の所在がどこにあるのか、あるいは私たちに残された可能性はどこにあるのかといったことについて、私たちがさまざまな議論を行う土壌を提供することにもつながるでしょう。
○ 同書で筆者が考えたかったこと②ーー人間的理想の矛盾と”生きづらさ”の理由
また本書では、こうした人間の存在のあり方を考える際に、とりわけ人間同士の関係性のあり方について着目していきます。
というのも、この関係性のあり方とその変容こそが、科学技術を通じてまさに進行しているものの一つであると同時に、現代人が感じている”生きづらさ”と深くかかわっていると考えられるからです。
例えば私たちは、現在SNSやYoutubeを通じて、世界中の80億人と簡単につながりあうことができます。これはグローバル経済のなかで互いに結びついているというだけでなく、どのような人とでも声を交わし、友人になれるといったように、文字通りつながることができるという意味です。
このような現象は、インターネットが未熟だった時代には考えられなかったことだと思います。しかしこれだけ他人と簡単につながれる時代にあって、なぜ多くの人が孤独に苦しんでいるのでしょうか。
ここには、他人と簡単につながることができる道具が発達すればするほどに、私たちが人と関わることに苦しみを感じるようになるという矛盾が引き起こされています。80億人がつながっていながら、みなが孤独で苦しく、皆が人恋しさに悲しんでいる。これはいったいどういうことなのでしょうか。
本書では、こうした問題を〈関係性の病理〉というキーワードをもとに掘り下げていきます。
また、現代社会の関係性の問題について掘り下げていくためには、科学技術の進展という要因のほかに、もうひとつ、社会的に共有されてきた人間的理想がもたらしている問題についても考えてみる必要がでてきます。
本書では、その人間的理想のことを〈自立した個人〉の理想と表現するのですが、比較的若い世代の方々にとっては、このことは自己決定や多様性をめぐる理想という言い方をした方が、馴染みがあるかもしれません。
この問題は、この講座の第2回で詳しく取りあげることにしようと思いますが、導入として少し踏み込んで見ておきたいと思います。
確かに自己決定や多様性は、私たちがよりよい社会を築いていくうえで重要なことでしょう。
例えば自己決定は、人々が人生のさまざまな場面で、より多くのことを他人から強制されることなく自分で選択できることを意味しています。つまり誰もが「自分の人生の主人公」として生きられること、それは素晴らしいことではないでしょうか。
また、多様性(ダイバーシティ)は、SDGsの掲げる「誰ひとり取り残さない」というキャッチフレーズでも知られている重要なキーワードです。 どのような国籍、人種、属性、宗教を背景に持つ人であっても、あるいはどのようなライフスタイルを好んだり、どのような価値観大切にしたりする人であっても、決して差別されず「ありのままの私」や「自分らしく」あることを認めてもらえる世界、これこそが多様性の理想だと言えると思います。
しかしそれならば、なぜこれほど自己決定や多様性が掲げられた時代に、かえって多くの人々が「自分らしさ」に思い悩み、自分を肯定できないといって苦しむのでしょうか。
例えば自己決定は、別の側面から見れば、生きる過程で生じる判断を、すべて自分で決めていかなければならないこと、そしてそのすべての結果を自分自身で引き受けなければならないということを意味しています。
数ある選択肢の中から、何かを選択した理由、そして何かを選択しなかった理由を常に問われ、それが「自分らしい」のかを自問自答させられます。と同時に、その決定がどのような結末を迎えたとしても、それを他人のせいにすることもできませんし、世の中のせいにもすることはできません。
結婚する理由、子どもを持つ理由、何かが自分の夢だと主張する理由、何かを好きでいる理由、誰かに会いに行く理由、その人と友人でいることの理由、今日その人に話しかけた理由、そして明日、自分自身が生きることの理由ーーすべてに理由が求められ、その結果の責任をたったひとりで背負わなければなりません。
そして自己決定と「自分らしさ」を謳歌できる人間が「勝者」と見なされ、自己決定や「自分らしさ」につまずいた人間は「敗者」と見なされます。自己決定の責任を取れない人間は、それこそ不完全で劣った人間だと見なされるわけです。
しかしそのような勝者などどれだけいるのでしょうか。そして私たちが必死に背負おうとしている”自分の人生の責任”など、そもそも1人の人間が背負いきれるものなのでしょうか。
SNSや周囲からは「勝者」だと羨まれている人が、実際には自分を「敗者」だと思っていて、自分には何もない、自分のことが好きになれないといって悩んでいる、そういう方が現代社会には溢れているのです。
また前述したように、多様性の理想とは、社会的なマイノリティのみならず、すべての人々が差別されることなく「ありのままの私」や「自分らしく」あることを認めてもらえる世界のことでした。そしてそのためには、偏見を捨てて、ひとりひとりが互いの違いを乗り越え、個性を認め合うことが大事だとされています。
確かに現代日本では、あからさまな迷惑をかけることがなければ、どのような服装をしようとも、どのような価値観を持とうとも排除されることはありません。その意味では、一定の多様性が尊重される社会、つまりある程度の”共生”が実現した社会であると言えるかもしれません。
しかしそこで実現されている「共生」とは、実際には必ずしも互いの理解や認め合いによって成立したものではありません。そうではなくて、むしろ互いが互いの趣向や空間に干渉しないことによって成立しているものだとは言えないでしょうか。
例えば私たちは、誰かと関わる際に、違いがあると感じた時点でそれ以上は踏み込まず、その人と関わる範囲を決めてしまいがちです。これは言い方を変えると、意図して相手との関係性を成立させないようにしているということです。
要するに、私たちが生きている「共生社会」とは、実際には互いの無視や無関心によって成立しているものだということです。
本書では、この問題を「不介入の倫理」という概念を用いて説明していくことになります。
とはいえ、私たちが意図して関係性の成立を避けようとするのは、不用意に関わりが生まれてしまうことで生じる人間関係の負担やトラブルを避けるためであるはずです。
一人一人の人間と正面から向き合うためには、私たちはさまざまな負担と忍耐とを引き受けなければなりません。互いの「ありのまま」や「自分らしさ」を理解し合い、認め合うというのは、本来そういうプロセスを含んだものを意味していたはずです。
しかしそのことを理由に、互いに距離を取り合う私たちの行為が「悪いこと」だと責められるのでしょうか。
例えば道端で出会った何十人もの人々、あるいは電車や駅のなかで遭遇する何百人もの人々に対して、私たちは「ありのままの私」や「自分らしさ」をさらけだし続けなければならず、またその一人一人の背負った「ありのまま」や「自分らしさ」を引き受けなければならない、ということになるのでしょうか。
ここで筆者が言いたいのは、自己決定にせよ、多様性にせよ、「こうでなければならない」とする理念だけが肥大化していて、それが私たちの置かれている人間的現実との間に途方もない解離をもたらしているということです。
それにもかかわらず、こうした価値理念は社会的に共有された「正しさ」として強い拘束力を持っており、かつ私たちの心の中においても強く内面化されています。
「あるべき社会」を思うほど、私たちは、それとはかけ離れた世界の現実に打ちのめされてしまう。そして「あるべき私」思うほど、どうあがいてもそのような私になどなれそうにない、自身の現実に打ちのめされてしまうのです。
本書では、私たちがそのような現実を否定する理想を掲げ、信じれば信じるほど、かえって私たちの自信は失われ、”生きづらさ”を抱えてしまう矛盾に着目します。
科学技術が私たちに日々どんどん新しい人間的現実をもたらしているのと並行して、「こうでなければならない」とする理想と現実との乖離が生じ、そのことが私たちの自己理解や世界理解、そして生きることへの理解を歪ませ、人間同士の関係性においても大きな混乱をもたらしてるということをここでは問題にしているのです。
○ 同書で筆者が考えたかったこと③ーー生きることの意味と、現実と格闘することの意味
これまで見てきたように、私たちは今日、人間の生き方やあり方が急速に変容していく時代を迎えています。そして同時に、私たちは人間同士の関係性をめぐってさまざまな矛盾を抱えて生きていると言えると思います。
本書で考えたかった最後の論点、それはそうした現実、そうした世界のなかで、私たちはどのように生きていくことができるのかという問題についてです。
といっても、それは「科学技術についてもっと考えよう」、「人間同士のつながりについてもっと考えよう」といったことではありません。
そうではなくて、ここで想定しているのはより本質的な問題です。一言で言ってしまうと、人が生きるということは「意のままにならない生」を生きるということであり、私たち一人一人がどのようにして自分が置かれた「意のままにならない生」に対して向き合うことができるのかという問題です。
本書の根底にあるのは、「私たちがいかなる時代を生きているのか」という問いであると同時に、「そもそも私たち人間とはいかなる存在なのか」という問いです。そして「人間とは何かを問う」ということは、「人間が生きる」とはどういうことかを問うことと同じことなのです。
「意のままにならない生」とは、残酷なことや苦しいこと、悲しいことを含んだ、自分の力ではどうしようもない〈有限の生〉を生きるということを意味しています。それは何ひとつ完全なものも、絶対的なものも存在しない世界を生きていくということでもあるでしょう。
もしも私たちが時代に翻弄され、誤り、迷いながら生きていく有限な存在でしかないのだとするなら、そこには絶望しかないのでしょうか。
本書はそのようには考えません。ただし、そうした人間の側面も決して否定しません。むしろそうした人間の側面を否定することなく、どのようにすれば、私たちは前を向いて自らの現実と格闘できるのかを考えます。
そこで本書が着目するのは、いかなる時代においても人間は、この問題と向き合ってきたはずだという事実です。そして私たちに連なる過去の時代において、人々はこの問題とどのように向き合ってきたのかということについて目を向けようとします。
そもそも人間は、誰ひとり自分で望んだわけでもないのに、この世界に強制的に産み落とされてきます。そして「意のままにならない世界」を前にして、「意のままにならない身体」のもと、「意のままにならない他者」と協力して生きて行くことを余儀なくされるのです。
このことは自らが望んでいるかどうかとは無関係に、私たちがこの世に生まれてきてしまった以上、必要とされることなのです。しかしそれはとても辛いことでもあるはずです。だからこそ人間には、そのような「意のままにならない生」を引き受けて生きてくための、手向けとなるような意味や言葉を必要としてきました。
「意のままにならない生」を引き受けること、言い換えると〈有限の生〉を一度は”肯定”するということーーこのことを本書では〈世界了解〉と呼びます。
〈世界了解〉とは、私たち人間が自身の置かれているそれぞれの現実に対して、目を背けることなく向き合うことを意味しています。何が正解なのかはわからなくとも、自分自身を信頼して前を向き、より良く生きようと格闘することを意味しています。
ここで筆者が思うのは、人間が長い歴史の過程で生みだしてきた、例えば〈思想〉や〈宗教〉や〈芸術〉といったものは、人々が〈世界了解〉を成そうとして格闘するなかで生みだされてきた、〈世界了解〉の手向けとなる意味や言葉が形となったものだったのではないかということです。
例えばある芸術作品を前にして、私たちがときに震えるような感動を覚えるのはなぜでしょうか。それはその作品のなかに、それぞれの時代や境遇を生きたひとりの人間にとっての、〈世界了解〉を成し遂げていく人間的な強さ、〈世界了解〉をはたしえない人間的な苦しみ、あるいは〈世界了解〉のための格闘のなかで、より良く生きたいという人々の願いが表現されていることを、私たちが感じ取っているからではないでしょうか。
これまで見てきたように、現代を生きる私たちは、科学技術がもたらす新しい現実によって翻弄され、現実と乖離した人間的理想に押しつぶされそうになりながら生きています。
もしもそのなかで人々が、〈世界了解〉をはたすための力を失っており、またそのための方法を見失ってしまっているとするなら、私たちはもう一度、この問題について向き合ってみる必要があるでしょう。
そのためには、私たちは人間というものが、ひとりきりでは決して生きられない存在であることを引き受け、互いに協力して生きていくために、どのような作法や知恵を積み上げてきたのかということについて知る必要があるでしょう。
本書ではこのことを「集団的〈生存〉」や「〈共同〉のための作法や知恵」といった言葉を使って掘り下げていくことになります。
そしてもうひとつ忘れてはならないのは、私たち人間の生というものが、決して個体という枠に綴じたものではないということについてです。
人間が生きるということは、単に個体としての「この私」が生きるということを意味していません。私が私として生きるということは、関係性によって結ばれた無数の人々の生との連なりを生きるのだということ、それは同時に過去にあったはずの無数の生、未来に存在するだろう無数の生との連なりを生きるのだということです。
このことの意味について、本書では〈存在の連なり〉や「担い手としての生」といった言葉を使っ掘り下げていくことになります。
最終考察の一文をここで引用しておきましょう。
なお、このあたりの論点は、本書のクライマックスに相当する部分です。もしも興味を持ってくださった方がいるようでしたら、本書のウェブサイトから、以下の箇所を読んでみてください。
【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」の(6)「〈世界了解〉①――人間の〈救い〉について」および(7)「〈世界了解〉②――人間の〈美〉について」
不明な概念がいろいろ出てきて混乱するかもしれませんが、本書のなかでメッセージ性が一番強い箇所ですので、何となくでも雰囲気を感じていただけるかもしれません。
最初は意味が分からなくても、そこから最初に戻って読んでいただくことで、長い議論のはてに、本書がなぜそのような結論に至ったのかといったことが、改めて分かっていただけるのではないかと思います。
○ この講座の計画について
さて、ここでは最後に、この講座で取り上げる予定のテーマについてご紹介しておきたいと思います。
もちろんこれらの内容は今後変更される可能性があります。そして準備ができたものからリンクを張っていきたいと思っています。
それでは「プロローグ」にしては長くなりましたが、皆さん、読んでいただきありがとうございました。
第1講 〈自己完結社会〉の成立――何が問題なのか?
本書【はじめに】および【第一章】「「理念なき時代」における“時代性”」より第2講 「自立した個人」と自己決定、多様性をめぐる問題
本書【第二章】「人間学の“亡霊”と〈自立した個人〉のイデオロギー」より第3講 本書の採用する三つのアプローチについて
本書【序論】「本書の構成と主要概念について」(3)「本書における三つのアプローチ」より第4講 「環境哲学」と人間(ヒト)の構造
本書【第三章】「人間存在と〈環境〉」より第5講 人類史のなかの〈自己完結社会〉
本書【第四章】「人類史的観点における「人間的〈環境〉」の構造転換」より第6講 〈生〉の構造と〈生活世界〉
本書【第五章】「「人間的〈生〉」の分析と「〈生〉の三契機」」より第7講 〈生の揺らぎ〉を考える:「〈生〉の不可視化」と「〈生活世界〉の空洞化」
本書【第五章】「「人間的〈生〉」の分析と「〈生〉の三契機」」より第8講 〈社会〉を再考する:「〈生〉の舞台装置」と〈社会的装置〉
本書【第六章】「〈生〉を変容させる〈社会的装置〉とは何か」より第9講 〈自己存在〉と〈他者存在〉ーー関係性をめぐる原理
本書【第七章】「〈関係性〉の人間学」より第10講 〈関係性の病理〉を再考するーー「ゼロ属性の倫理」と「ありのままの私」
本書【第七章】「〈関係性〉の人間学」(5)「「ゼロ属性の倫理」と「意のままになる他者」」より第11講 〈自立した個人〉の再考
本書【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」より第12講 人間における〈共同〉とその成立条件について
本書【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」より第13講 〈共同〉の作法や知恵としての〈役割〉の原理
本書【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」(5)「「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉の原理」より第14講 〈共同〉の作法や知恵としての〈信頼〉の原理
本書【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」(5)「「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉の原理」より第15講 〈共同〉の作法や知恵としてと〈許し〉の原理
本書【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」(5)「「〈共同〉のための作法や知恵」としての〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉の原理」より第16講 〈共同〉の破綻と〈自己完結社会〉ーー「不介入の倫理」を考察する
本書【第八章】「〈共同〉の条件とその人間学的基盤」(6)「〈共同〉破綻と「不介入の倫理」」より第17講 〈歴史〉とは何か
本書【第九章】「〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換」(1)「「意味のある過去」と、「生きた地平」に立つことについて」より第18講 〈自己完結社会〉の成立を追う
本書【第九章】「〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換」より第19講 時代を生きる人間と「担い手としての生」
本書【第九章】「〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換」(7)「“時代”と人間の〈生〉」より第20講 〈無限の生〉の「世界観=人間観」
本書【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」より第21講 〈無限の生〉の「ユートピア」
本書【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」より第22講 〈有限の生〉の世界観=人間観
本書【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」(5)「〈有限の生〉とともに生きる」より第23講 〈世界了解〉と人間の〈救い〉
本書【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」(6)「〈世界了解〉①――人間の〈救い〉について」より第24講 〈世界了解〉と人間の〈美〉
本書【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」(7)「〈世界了解〉②――人間の〈美〉について」より第25講 結論ーー〈自己完結社会〉の未来
本書【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」(8)「結論」より第26講 人文科学の危機と〈思想〉の役割
本書【序論】「本書の構成と主要概念について」より第27講 〈文化〉への問い
本書【補論一】「残された課題としての〈文化〉への問い」より第28講 〈自己完結社会論〉とその周辺