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「占領下の甲子園、未公開写真はいつ誰が撮ったのか?」スコアボードを追いかけたら分かったことと、残る謎

ことの始まりは、今年開場100周年を迎えた甲子園球場(兵庫県西宮市)の占領下の未公開写真が、米国の写真家から神戸市文書館に寄贈されたという情報でした。

市文書館に見せてもらった写真は甲子園を運営する阪神電気鉄道も持っていない貴重な写真

しかし同時に困ったことも

というのもこの写真、いつ誰がなぜ撮ったのか、一切分からなかったのです。寄贈した米国人も、米国内のガレッジセールで知人が購入したものを譲り受けたため、写真の最初の持ち主すら分かりません

そんなわけで、原稿を書くために欠かせない写真の撮影時期を特定する取材が始まりました。

米国の写真家が寄贈した計9枚の白黒写真のうちの1枚。
太平洋戦争後、米軍が接収していた甲子園球場前に立ち、ポーズを決める米兵。外壁には英語で「KOSHIEN STADIUM」の看板も見えます。
=神戸市文書館提供

◆ 鍵は「スコアボード」

頼りにしたのは武庫川女子大の丸山健夫名誉教授。球場職員からも一目置かれる丸山先生は、甲子園球場の歴史を研究する第一人者です。

そんな丸山先生でも9枚の写真を見せると、
「見たことがない。初めて見る写真だ」と驚きました。そしていくつも大切なポイントを教えてくれました。

丸山先生がまず指摘したのがスコアボードの写真です。スコアボードは時期によって表記や形が変わるのでヒントが多いのです。

=神戸市文書館提供

まず、写真に写るスコアボードは1934~1983年まで使われた2代目です。外野席は1936年にスコアボードと同じ高さまで引き上げて席を増やす工事が行われたので、この時点で撮影は1936年以降と分かります。

続いてのポイントはストライク、ボール、アウトの表示です。写真ではいずれも縦書きで、右から「Sストライク、Bボール、Oアウト」となっています。丸山先生によると、右からストライクと書くのは戦前の表記方法。「場球園子甲」のように横書きの文字を右から書いていたのと同じように、縦書きも右から書くという時代だったようです。

甲子園のスコアボードは戦後ストライクとアウトの位置が逆になるので、右にストライクがあるのは戦後間もない頃までと分かります。

さらに、SBOというアルファベット表記も特徴的でした。戦中英語は敵性語とされました。
戦中ににそんな敵性語の表記をするのだろうか?
特にアメリカとの戦争が始まった1941年12月以降は考えにくいのでは無いか?

そんな仮説が浮かびます。

◆ 阪神電鉄の本社へ

そこで続いて向かったのは大阪市福島区にある阪神電鉄の本社。甲子園球場を建設し、現在も運営している会社です。1945年前後のスコアボードの写真があれば、もっと時期を絞り込めます。

阪神電鉄本社

広報部の一画で、阪神電鉄が持っている古い写真のファイルを見せてもらいました。

その中に1936年のスコアボードがありました。丸山先生の指摘通り、右からストライク、ボール、アウトとなっています。今回見つかった写真と同じです。アルファベット表記はありません

1936年に撮影されたスコアボード
=阪神電気鉄道提供

一方、戦後の1949年の写真にはアルファベットが付いています。しかしこちらはストライクが一番左。戦後に順番が改められたのも確認できました。

1949年に撮影されたスコアボード
=阪神電気鉄道提供

阪神電鉄にあるスコアボードの変遷を見ると、今回の写真は1936年~1949年の間に撮られたとみるのが良さそうです。

◆ 外野の看板

今回見つかった写真を見た丸山先生は、スコアボードの他に外野の観客席上部に看板が無いと言うことも指摘していました。でも先ほどの1949年の写真にはスコアボード左に「疲労回復 メタボリン」という看板が見えます。

丸山先生は「甲子園で戦後初めて高校野球が行われた1947年3月の選抜大会では、すでに外野上部に看板が掛かっていた」と指摘します。もし本当なら、看板が掛かっていない今回の写真の撮影は1947年3月より前になります。

早速当時の資料を探しました。共同通信大阪支社の運動部の本棚にありました。「選抜高等学校野球大会60年史」の379ページ、ここに出ていた1947年3月の選抜大会で始球式をする写真の背後に、「プレホルモン」という看板が見えます。今回の写真の撮影はやはり1947年3月以前のようです。

◆ 幻の甲子園

続いて、戦時中の写真を探したところ1942年に開かれた「幻の甲子園」と呼ばれる大会の写真を見つけました。

「幻の甲子園」と呼ばれる1942年に開かれた大会のバックスクリーン
=龍谷大学付属平安高等学校提供

「幻の甲子園」とは戦時中に開かれた全国の中等学校(現在の高校に当たる)を集めた野球大会です。ただ主催は現在の高校野球のように朝日新聞や高野連ではなく、当時の文部省。戦意高揚のために行われ、スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ」「戦い抜こう大東亜戦」などと掲げられました。

ユニホームのローマ字表記や、投球をよけることを禁じ、選手の途中交代もできないなどの特別ルールで行われ、現在高校野球の公式の大会史には残っていない大会です。

当時の写真に写るスコアボードは右からストライクとされ、アルファベットはありません。今回見つかった写真の撮影時期は1942年夏~1947年3月に絞られました。

加えて、太平洋戦争が始まってユニホームのローマ字表記も許さない大会が行われたのに、終戦の1945年8月までの間にスコアボードにアルファベットで「SBO」が付けられるとは考えにくいです。

そもそもすでに日米が開戦している1942年~1945年の終戦までの間に、米兵が甲子園球場の前で笑顔で写真を撮れたり、外壁に英語表記の看板が掛かっていたりしたことはなかったでしょう。

作画:西村曜

こうして見つかった写真の撮影時期は、1945年8月~1947年3月という、米軍占領下と分かりました。

◆ 被爆後の広島や愛知の保養所

実は今回見つかった甲子園の写真9枚は、米国から寄付されたおよそ60枚の写真の束の一部です。ほかにも、被爆直後の広島市内で撮られたものや、愛知県内にあったGHQの保養所での写真、神戸市内の軍施設などがありました。

寄贈した米国の写真家は、当初全て広島で撮影されたものと考え、広島市の原爆資料館に寄贈の相談をしました。原爆資料館の学芸員が甲子園球場など他の地域の写真に気づき、各地の資料館や文書館に連絡した、という流れです。

当時の米軍の軍服に詳しい専門家にも写真を見てもらったところ、服装の特徴などから関西地方を担当していた米軍の第25歩兵師団の兵士とみられる人もいました。

原爆資料館の学芸員さんによると、広島市内と甲子園のどちらにも写っている人が2人います。この写真を撮ったカメラの持ち主かもしれません。原爆資料館によると、背景に見えるバラックの状況から撮影は1945年11月~1946年3月ごろの間だそうです。

広島市内に立つ米兵。寄付された写真の1枚
=原爆資料館提供

なぜ彼が被爆直後の広島にいて、その後甲子園で写真を撮ったのかは分かりません。写真からの取材で分かったのはここまででした。

まだまだ謎は残されています。もし、お心当たりの方がいらっしゃれば、ぜひ情報提供お待ちしています

取材の結果、6月に配信した記事はこちら。

西村 曜(にしむら・よう)=1989年生まれ、兵庫県出身。2013年に入社し、旭川や広島、福島支局で勤務。甲子園球場には10歳から通う。スタンドにつながる通路を抜け、青空と緑の鮮やかな芝生が広がる瞬間が好き。売店から漂うゲソ串の匂いも好き。

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