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評㊹南野陽子主演『なくなるカタチとなくならないキモチ』@駅前劇場6000円

 第4回横浜桜座プロデュース公演『なくなるカタチとなくならないキモチ』@駅前劇場(下北沢)、全席指定6000円、20歳以下ユース割3000円、障がい者割3000円(横浜公演のみ)。10/7~16東京公演(駅前劇場)、10/18~19横浜公演、大阪公演10/21~23。
 主演:南野陽子、脚本:大西弘記(TOKYOハンバーグ)、演出:磯村純(青年座)。東日本大震災前後の福島、障がい(※主催者表記に合わせ、この項では「障がい」と記す)を持つ人とその家族やコミュニティーの物語。

駅前劇場6000円は高!、「なんでナンノが?」で破棄

 最初は、どこかでもらった公演チラシに、80年代のアイドルで愛称ナンノ(知ってる年代w)こと南野陽子(55)発見。チラシの材質が気持ち薄めだし、なんだか地味な感じ。商業公演の匂いがしない。有名人が出る公演は商業公演が多いし、それなりに心の覚悟と財布の覚悟を持って臨む。駅前劇場で6000円は高いし(せいぜい5000円だろう)。
 
「なんで、ナンノがここに?」と、公演の内容もほぼ確認せずにいったん破棄。

「あの南野陽子が下北沢の駅前劇場に?」PRで釣り針に

 その後、ネット上の宣伝記事を見かける。よく読むと、障がいのある俳優らで構成する「横浜桜座」だ(実は横浜桜座「プロデュース」だった、嗚呼勘違い!)、なら、何らかの意味合いを発見しそうだ。ナンノも、以前友人が桜座公演に出ているのを見て出たいと思った、など話している。改めて公演サイトを見ると、以下のように“自画自賛”(?)。 

「あの南野陽子が下北沢の駅前劇場に?」と、話題を呼んでいる本公演。 

第4回横浜桜座プロデュース公演『なくなるカタチとなくならないキモチ』公演サイトより

 では、観るか。ナンノが出るから駅前劇場でも6000円なのか??? “誘客装置”であることは、自他共にわかっているだろう。

南野主演は客の財布を、南野の役柄が客の心をつかむ

 例によって内容をあえて確認せず観る。
 パンフレットは、受注生産で応援代も込みで5000円。買ってない。
 それにしても、障がい者と家族、支援者の話に、3・11、しかも福島を入れてくるとは。そちらも難しいテーマである。

 結論からいうと、南野の主演は客の財布を(誘客装置)、障がい当事者ではなく支援者という立場の南野の役柄とその描写が、客の心をつかんだ、と思う。簡単に白黒つけられないテーマを上手く構成した。勿論、南野はじめ実力派ぞろいの役者たちが、きっちりと世界を表現した。

“健常者”のあなたはなぜ「寄り添おう」とするかを問う視点

 障がい当事者やその家族、支援者から観た場合、どう捉えたかは、当事者でない自分にはわからない。
 ただ、世の中の人々の大半はいわゆる障がい当事者やその家族ではない(少なくとも手帳を持たないレベルというか、発達障害のグラデーションや、高齢化で難聴や認知症になるなどは置いておき)。障がい当事者になぜ(“健常者”であり家族でもない)あなたは「寄り添おう」とするのか、の視点の方が、当事者ではない多くの客の想像力を呼び覚まし、共感を得やすい。その後の相互理解につながっていく可能性が高い(実のところ「なぜ寄り添うのか」を問うだけで、南野演ずる職員の回答は意図的に描かれていないが)。
 客席には勿論、障がい当事者やその家族、支援者も多くいるだろう。いわゆる演劇関係者の匂いのしない、「まちづくり」「家族」の匂いの客席。それでも、当事者でない「一般の人」が観る前提の舞台作りは意義深い。
 パイプ椅子の駅前劇場で6000円はやはり高いが(クラウドファンディングで上演にこぎつけた事情もあるらしい)、見事だったと思う。

※以下、ネタバレあり。

原発事故に翻弄された福島・楢葉の障がい者作業所の人々

 福島県浜通り・楢葉町。福島第一原発より南側、半径20キロ圏内の端に位置する。原発事故により全住民が避難した7町村の中で初めて、2015年に避難指示が解除された。原発事故で空中に放出された放射能は風の関係で主に北西に流れ、南側の楢葉町は比較的影響が抑えられたのかもしれない(想像)。帰還した住民の大半は高齢者という。※この段落の内容は自分が事後に検索
 舞台は、その楢葉町にある就労継続支援B型事業所。知的障がい者、若年性認知症患者、精神障がい者らが通う。南野はそこの職員・早見千絵(他に所長、職員がいる)。早見は神奈川・川崎に住む娘がいて孫が生まれる設定なので、南野の実年齢55歳とほぼ同世代設定だろう。にしては綺麗な、でも芸能人にしてはふっくらした(つまり、ちょうどいい)美魔女に見える。
 時系列は「震災に向きあう障がい者」を取材に来た男性記者が南野演じる職員と初めて会う2015年(舞台上で数字を提示)から過去に戻り、2011年の震災前後、2019年(舞台上で数字提示)、2022年(出演者が顔に付けたマスクと「震災から11年」の台詞で説明)と、現在に至る構成。

 震災前の作業所は和気あいあい。震災で高台の作業所は津波の被害は逃れたものの、間もなく起きた原発事故で避難を余儀なくされ(追い出され)、体育館にも一時避難。町への帰還が可能となった2015年段階では障がい者はひとりしか戻っていないが、徐々に懐かしい顔が帰ってくる。その間、亡くなった仲間もいる。利用者のひとり、統合失調症の女性が不安や「自分が亡くなった後にひとりで生きてほしいからこそ厳しくする父親」との関係から「あたしのために苦しまないで」と自殺未遂をするが、死者から「生きてる意味は誰にもわからない」など諭され、生き残り、再出発する。
 最後に、7年間作業所に通い続け、そろそろ書籍化しようとも考えている記者が、南野に「あなたの思う所を」と聞き、南野が口を開けたところで、終わる。

日常が崩れた時、より影響を受けやすい「弱者」

 障がい者は、世の中が“健常者”向け仕様のため、生きづらい。そこをうまく乗り越える方法のひとつが、居場所、拠り所を作り、ありきたりの日常のルーティンを一つ一つこなし、小さな成功を安心に変えていくこと(推測)。言葉を変えると、「急激な変化」は“健常者”以上に苦手だ
 震災はその日常、居場所を破壊し、親しい人を失わせ、おそらくは“健常者”以上にその心を揺るがせた。震災前の作業所の様子を丁寧に描いているため、その場を追い出されるショックが観ている側に伝わる。
 知的障がい、若年性認知症、精神障がいの中で、障がい当事者の苦悩描写は、最後者の精神障害(統合失調症)に絞った。それも、現在障がい当事者でない人が、この先自分も罹患する可能性のある病として想像しやすく、適宜な選択と思う。

「障がい者を支援する」本音を語らない職員早見千絵 

 最初から、薄々気づく。この人、南野演じる早見千絵という職員は、なぜ、ここにいるのか。その答えを探っていくのが、この舞台なのだろうと。

 訪ねてきた記者は、勿論、その質問「福祉の世界を支える理由」を当初からぶつける。ぶつけながら、記者自身も「震災に向きあう障がい者」を取材する自分を「これでいいのか」と思っている節があり、質問の矢は明確に南野に刺さらず、右往左往する。南野はそこで「そうやって考えることが大事」とか言って、いやそれも本質なんだけど、自身は本音を見せない。
 「一人暮らしの障がい者が楢葉に帰るには支援者が必要」など言ってるわけだが、それだけで、南野がここにとどまる理由はなんなのか。
 この人は、本音を言わない。この人の本音はなんだろう。ある時、無言で机に突っ伏す。ああ、やはり。ではでは、いつ。。と思っていると、最後の最後に口を開きかけたところで終わる(そうだと思っていた)。
 もろに「答えはお客さんが考えてください」パターンだ。演劇はもともとそういう性質のものだが、今回はバリバリにもろだ。狡い、狡いぞ、大西! とはいえ、この答えのないテーマでは、この方法が最適かもしれない。

 構成が上手いのは、南野演ずる職員早見の身を案じているその娘に「お母さんは……」、早見が苦悩を抱えていることを匂わせ、しかも、匂わせるだけで内容を限定しない。うわ、狡いぞ狡い。でも、そうすることで、何が本音か、客は自由に考えることができる。上手い。

「市民劇か」と勝手に「誤解」も、ふっとばす各自の演技力

 最初は南野で見せ、最後も南野(の役柄)への問いで終わるのだが、その間は、障がい者や家族、支援者を演ずる役者たちの演技が世界を作りあげた。

 演者たちは、青年座はじめ東演、文化座、銅鑼、流山児★事務所などに所属、あるいはフリーの安定した演技を見せるつわもの達。特に、障がい者の演技などは「こんなもんでいいだろう」でやっていたら、客に伝わって台無しになる難しい演技だろうが、そこを難なくやってのけた。自殺未遂をする女性の役は、化粧の関係もあるのだろうが、苦悩の時とふっきれた時で表情や雰囲気が180度変わっていた。

 また、そうそう、そこが一番の自分のあほなところだが、これは障がい者と共に演ずる舞台かと思っていたので、最初に作業所のメンバーがずらずら出てきたときは、素人感を勝手に感じ、「市民劇」のノリかな、と思った。しかし、始まってみると、それぞれの役者の演技に引き込まれ、あ、こりゃ違うなと。チラシを再確認したら、猛者ぞろいではないか、いやおみそれしました。
 ただ、最初に「市民劇」のノリ、を漂わせられる、こと自体が演技力のある自信がなせる業ではないかと思う。中途半端な役者は「私ら俺らは、プロの役者なんだよ~」と誇示する傾向がある気がするが、真に自信があれば必要もない。観てればわかるのだから。そこまで計算していたら、すごいな。

 なお、南野自体の演技力は、舞台は初見なので難しいが、駅前劇場という大きくないハコに適した無理のない(下手に声を張らない)のびのびした発声。かつ、職員として物事を「説明」する台詞が非常に多かったが、その内容がきちんと頭の中に入ってくる、作品と劇場に適した話し方だったと思う。

 ということで、障がい者サポートの資金集めもあると思うので、駅前劇場6000円、の財布加減はさておき、大西脚本を十分に味わった。 

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