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・今日の周辺 2022年11月を跳び越えて師走


○ 今日の周辺
日記が流れ去る11月だった。急に自分に目まぐるしくて。
これまでだったら耐えられない緊張どぎまぎ吐き気みたいな切迫感プレッシャーあちこち引っ張られて散り散りになりそうな、それでいてその後はぷつんと途切れて取り残される、みたいな感覚も自分の中に収まるようになってきた。自分の工夫でどうにかひとつひとつ進める。
仕事が通って、1月にかけておそらく3件一気に進めていく予定。返答まで大分時間が空いて、絶対他のカメラマン探されてるよ……と思いながら過ごしていたから、本当にほっとした。これで、慌ただしい11月をぎゅっと閉じることができた。

10月11月とすっかり秋を見落とした。
いいいろ、かたちの葉っぱがそこらじゅうに落ちてくるのがようやく目に映る。

朝5時の考えごと再発
寝たい寝たいと眠らせないぞのせめぎ合いで悪夢より酷い
開けていない仕事のメールを夢の中で開封する……
やらなきゃいけないことが山積みで、朝から気が重いけれど、
朝の支度をして、気になっていた髪を切りに行く、机の上の紙片を整理する、弟に声をかける、連絡をしていなかった人に連絡してみる、日記をつける。
仕事をしても洗濯物はなくならないし、食器を洗っても仕事は進まない(当たり前なんだけど忙しいと本当頭抱える)。

日記を書いておくことは、気分の移り変わりによって自分にうまく検索できなくなる過去のケースバイケースの履歴を蓄積していくことでもある。私は最初の3年はロルバーンのA4サイズのリングノートに10年日記の形式で書き留めていて、そもそも文字を書くことが好きだったから手書きしていたのだけど、書き慣れていくにつれて紙の上に収まらなくなったので途中からiPadの日記アプリに移した。アプリの方はワード検索ができるから、関連する日記を引き出すのにすごく便利。
ということを友人に教えたら関心された。

とにかく行動、実践、そのための思考と言葉。私もそうしていきたい。なかなか目に見える行動に移すことが難しい私にとっては、周囲と比べてしまうと少し辛い。
比べなんかしなくていいね、ここにきて友人と確かめ合った「自分グランプリ」って言葉がどれだけ尊いものだったかって思う。自分グランプリも常時開催にすれば、外部の賞を受賞できなくとも(あらゆる承認を得られなくとも)、自分グランプリは受賞できるわけだし、なんなら同時受賞だってあり得るわけで。何言ってんだとも思うけど、自分の成長というか、変化から目を離さないでいることは結構大切なことだと思う。


○ ため息
本を読んだり、自分で言葉を紡いだり、友人と会ったり、仕事をしたり、初めてすることに向き合ったり、いっとき家族との時間に自分を合わせたり、そうして眠りにつこうとする。1日の中にそれらを渡っていくために様々なリズムや緩急を自分の身体に実装する。そりゃ疲れたり憤ったり気落ちせずとも、ため息も出るわ、って思う。ため息は、身体の柔らかさをその後に合わせていくための息継ぎに欠かせないことなのだってわかって大小構わず積極的に応えていく。


○ あれこれ
松尾芭蕉『おくのほそ道』面白く読んだ。
歌は歌である前に、時間を超えて様々なことを伝える手段であったということがよくわかる。その前を旅した人の歌を手がかりに新たに旅をすることができるほどに。
松尾芭蕉が江戸時代にいて、敬愛する西行法師が鎌倉時代にいて、
芭蕉は「遊行柳」を訪れた際に幻想を試みて西行の霊と出会うのだけれど、それはまさに能で、その形式を用いて西行に挨拶をする。
私が夢現能を好きなのは、自分の頭の中、空想の中での「もしこのように人と渡ることができたら」っていう思いと重なるところがあるからで、
届きようのない言葉とか、手紙とか、もう会うことがない人と一時通じようと試みる、ということとの親和性があるからなのだと思った。
旅人が仮宿にしたところに思わず霊が留まっていて、旅人は霊の言葉とその土地の話に聞き入り、霊もまた現世への悔いや悲哀を口にし語ることで思いを晴らして消えていく、夢のような一瞬、一晩のことが描かれた謡曲が百以上あるというだけで何か嬉しい。
詩歌が手紙みたいになって、当初宛てられたわけではない人が時間を超えて私こそがと受け取るということが脈々と連なっているの、『奥の細道図巻』を描いた蕪村だって芭蕉に会ったことはないわけで、不確かで危うく、共有できない「ないものをみようとすること」に形を与えることが途絶えることがないことを心強く思う。
本当読みながら笑った、民家にお湯をもらいに行ったけど断られたとか、蚊に刺されておまけに持病の腹痛も起こって気が遠くなりそうに眠れないんだとか、決心して出かけた修行の旅の中で気に留まるのは歌枕や景勝地、旧跡への深い感動だけでなく、そんな些細なことまで書き留めてあって、俳句(詩歌)と世俗、自身と世俗の関係を詠むことにも旅の目的があったことが窺える。

それと、
仕事を終えた午後に飯山由貴さん「あなたの本当の家を探しにいく」を観に、初めて東京都人権プラザに行った。

精神障害のある妹の幻想に周囲の人を巻き込んでみる。
というか、幻想を持つ妹にとってはむしろ私の方が普段から周囲の現実に巻き込まれている、という感覚なのだろうと思う。
「本当の家」を探して2人夜道を歩きながら、そのことを通じて互いの視点や語りの焦点は近い範囲の中をずれ続けて合うことがない
現実も幻想も実現してみると頭の中にあるままに思うように運んだりしない。けれど、多数とか最大とかで決められない個人の声と語りに耳をすまし合うこと、そのことがまず必要なのだと思う。私にはすごく幸せな時間だった。


○ あれこれ
一体自分は何を話しているんだろうってルノワールで延々話し続けてる爺さんみたいな気分になってくる(爺さんが実際どんな気分なのかは知らない)。

郵便局から荷物を出した
定型か定型でないか微妙なサイズで、時間がかかる、窓口の人と右往左往する。
定型だったらマニュアル通り、そうでなければいろいろに検討が必要になる、いろいろなものに幅や厚さを当てはめてこれはいける、それではできない、それならこれでどうだ、という感じであれこれ試してようやく決まって荷物を出した。
本来やっぱり1つのことをするのでも工数がかかって当然なのだ、と毎週急かされながらいろいろ省いて進めている仕事のことを重ねて思う。

今私がどこから見るか、見ているのか、
視点の判断、見誤りが亀裂を生じさせ、そのことが誤配を知らせる。
対象に対する各々の距離感と解像度の高さによるのだと思う。そこに自分で客観性を持つことができるかって、やっぱり解像度を高く持ちたいと思えば思うほど引いて見ることが難しくなるように思う。比較できない個別具体的なことに関しては特に。
曖昧なことも極端になってしまうことも個々の「どう捉えるざるを得ないのか」によるのだし、
話のすれ違いを生むのは、「するかしないか」 と 「どのくらいするか」を捉え損ねることにあるのだと思った。
あとは、その議論が「今」必要かどうか、というのもあると思う。その「今」というのも、個々によるから、絶体化することはできないし、他者が不要だって決めつけて払い除けることもできない。けれど、それを決めるのはその場の力関係であることが多い。

出口のない捩れた解像度が高まる、みたいなことはなるべく避けたい
飲み込んだ言葉を丁寧に並べる

自分の心を解す、途絶えたかのように思われる人への道を、もう一度自分で照らすことができるよう、心を温める
そのことを助けてくれるものの手を借りる
本やイメージ、展示空間とか、媒体を通して人の言語を受け取ってから考えることが唯一自分が思うことが思うように言葉になる機会
歌もそういう機会になるといい
そういう時間に暮らせるよう、人生を調整していく

知ろうとすること、今できる仕事、これからの仕事が渦巻き状に混ざった、掛け替えのない1日、全部をそーっと運ぶ。大切に大切に時間を過ごす。

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さあ眠ろうというときにだよ!アイマスク外して眩しく見る画面から、
笹井宏之賞、すっごい急に出るじゃん……受賞ならず、ざんねん、ひとまずは2月号を楽しみに頑張ろう(眠る前のテンション感、iPhoneのメモから)

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