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夜警ども聞こえるか

「夜警ども聞こえるか」を読みました。
作:皮肉屋文庫

ネタバレ注意!
この記事にはネタバレが含まれます。

(少し、間を空ける)

わりと面白かったです。

物語は、作者の皮肉屋文庫がまさにこの「夜警ども聞こえるか」の執筆を始めた所から始まります。
作者自身の身の回りで家電製品が次々に故障するという怪異が発生し、そこから話は中古のボイス・レコーダーを買った2023年6月にさかのぼります。

ちょっと夢野久作「ドグラマグラ」的な感じもある、複雑な入れ子構造の小説でした。

1999年、Jホラー全盛時代の映画業界の話で幕を閉じる(物語が始まる)というオチも、わりと面白かったです。

実話怪談とフェイク・ドキュメンタリー

ここ数年、ホラー小説ブームが再燃しているみたいです。
その中でも「フェイク・ドキュメンンタリー」と呼ばれる下位サブジャンルの人気が高く、ブームの牽引けんいん役になっていると聞きます。

**小説におけるフェイク・ドキュメンタリーとは何か

そもそも論を言うと、ある小説ジャンルを「フェイク・ドキュメンタリー」と呼ぶ事に、あまり意味はありません。

なぜならだからです。

1人称形式の小説は、作中の登場人物が書いた手記・日記というていで書かれます。
というより、昔からあった「作中の登場人物が書いた手記・日記という体裁の小説」の事を、われわれ後世の読者は「1人称形式の小説」と名付け、分類しているのです。
それらは、架空(フェイク)の登場人物による手記・日記(ドキュメント)です。

怪奇小説の古典「フランケンシュタイン」も「吸血鬼ドラキュラ」も、登場人物たちの手記という形式です。
これら古典からして、既に「フェイク・ドキュメンタリー」なのです。

余談ですが、ホラー映画の1ジャンルに「発見された映像(ファウンド・フッテージ)」が有りますが、小説の世界には百年以上も前から「発見された手記」という形式が存在します。

**現代(2025年)の日本ホラー小説界における「フェイク・ドキュメンタリー」

そもそも全ての1人称小説がフェイク・ドキュメンタリーであるとするなら、2025年現在の日本で、ある特定の形式で書かれたホラー小説を態々わざわざ「フェイク・ドキュメンタリー」と呼ぶ意味は何でしょうか?

やはり、映像業界にけるフェイク・ドキュメンタリー作品の流行が関係しているのでしょう。
(映像作品の)フェイク・ドキュメンタリーが持つ独特の雰囲気を、どうにかして文章に変換し小説に落とし込もう、という試みを称して「フェイク・ドキュメンタリー小説」と言うのです。
(ここ数年の日本ホラー小説界の文脈に於いて、という注釈は付きますが)

**以前からある「実話怪談」との違い

ここ2か月くらいの間に、評判になっている「フェイク・ドキュメンタリー」形式のホラー小説を続けて何冊か読みました。

実際に読んでみて、以前からある「実話怪談」文学からの影響が大きいんだな、という印象を受けました。
フェイク・ドキュメンタリー小説は、映像作品のフェイク・ドキュメンタリーを父に、実話怪談文学を母にして生まれた子供である、と言えそうです。

1990年に出版された「新耳袋」が、実話怪談本ブームの火付け役だと記憶しています。
やがてブームは定着の段階へ移行し、以来30年以上もの間、各出版社からコンスタントに出版され続けています。
2ちゃんねる(5ちゃんねる)などのウェブ掲示板に日々投稿されている怪談なども含めると、その総数は膨大になるでしょう。

では、昨今ブームになっているフェイク・ドキュメンタリー小説と、その母体となった実話怪談との違いは何でしょう?
一目いちもく瞭然りょうぜん、ジャンル名の中に既に答えが有ります。
実話怪談は「実話」、フェイク・ドキュメンタリー小説は「フェイク(創作)」という違いです。

では、さらに突っ込んで、「実話」と「フェイク(創作)」との違いは?
僕の考えは、こうです。

「実話」には凝った物語構造が許されず、「フェイク(創作)」は凝った物語構造を持つ。

実話怪談は「実話」であるがゆえに、あまりにも出来過ぎた話は嫌われます。
多くの場合、奇怪な出来事だけが何の脈絡も無く描写され、オチも無く唐突に終わります。
そこに「物語」は無く、単に「出来事の描写(表現)」だけがあります。
(余談ですが、物語が存在せず「出来事の描写」だけがある、という特徴は、Jホラーが目指していた所でもあります)

対してフェイク・ドキュメンタリーは自らフェイク(創作)と名乗っていますので、凝った物語構造が許容されます。

純粋な描写(表現)から、物語の復権へ

ホラー小説の再ブーム、そしてフェイク・ドキュメンタリー小説の隆盛は、いったい何を意味しているのでしょうか?
こんな仮説を、僕は立ててみました。

「〈純粋な描写〉から〈凝った物語構造〉へ、ホラーの揺り戻しが起きている」

僕自身の、今の心境の変化を語らせてもらいます。

僕は、ここ10年くらい、
「芸術に必要なのは描写(表現)だ。物語なんか無くたって良い」
と思って来ました。
前後の脈絡も知らずいきなり適当なページを開いて本を読み始めても、面白い本は面白い……って思っていました。

でも最近、ちょっと宗旨しゅうしえしようかな、と思い始めています。
「やっぱ、物語の面白さも大事だよな」と。
最高の描写も大事。
最高の物語も大事。
最高の描写力で、最高の物語をつむぐ。それが1番大事。

ホラー小説に関しては、適度なバランスが必要

ことホラー小説に関して言うと、「描写(表現)の切れ味」と「凝ったストーリー・テリング」が相克しちゃうのは仕方無いかな、とも思います。

ある程度の物語性が無いと物足りない。
でも物語に凝り過ぎると怖さが減退してしまう。
だから、丁度良い塩梅あんばいの所でバランスを取る必要があると思います。

短篇か長編か、それが問題だ

「怪奇小説の本領は短篇にあり」と、昔から言われています。
たしかに、切れ味の鋭さで勝負するなら短篇です。

当たり前ですが、話が長くなるほど物語性が前に出て来ます。
一定の長さを超えると、起承転結の物語構造をどうしても持たざるを得ない。
始まりがあって、主人公の性格付けがあって、主人公の抱えるコンプレックスがあって、家族との関係が描かれ、友人関係が描かれ、恋愛が描かれ、コンプレックスの克服があって、敵との対決があって、結果があって、終わりがある、そういう物を書かざるを得ない。
しかしそれは、エンターテイメントではあっても、真の恐怖(ホラー)ではない。

実際、例えば「ドラキュラ」は長編小説ですが、あんまり怖くないです。
怖くはないですが、エンターテイメントとしては最高です。

同じ事は、スティーブン・キングを始めとするモダン・ホラーにも言えます。
キングは短篇も書いていますが、彼にとっては余技でしょう。
彼の本分は長編です。
そして、彼の小説が日本で翻訳・出版され始めた当初から、

「キングは怖くない」

と言われていました。
だからと言って、キングの作家としての価値がそれでおとしめられる訳ではありません。
エンターテイメントとして見れば、あるいは文学作品として見れば、キングの小説は1級品だ、という評価が揺らぐ事は無いでしょう。
ただ、怖くは、ない。

日本のホラー小説界は、「ある程度の怖さを確保しながら長編をつむぐ」という挑戦の時代に入ったのかも知れません。

カチッとした起承転結の構造がある物語を描く。でも、怖さが半減する一歩手前で、あえて、その構造を崩してみる。
登場人物を描写する。でも、怖さが半減するほど緻密には描写しない。
怖さと物語性(エンターテイメント性)……相反するこの2つの要素をぎりぎりの所で折衷せっちゅうさせる。
こんな挑戦を、現在の日本のホラー小説は始めているのかもしれません。

その点、キングを始めとするアメリカのモダン・ホラー作家たちは、あっけらかんとエンターテイメントに全振りしている。
ホラー(恐怖)よりもスリル(緊張感)に全振りして、読者にページをめくらせる。

どちらが良い悪いって事じゃないですが、アメリカでモダン・ホラーが勃興して早や半世紀が経とうとしています。
そろそろ新たなジャンルへの挑戦があっても良い頃合ころあいです。
21世紀の新たな挑戦として、しばらく日本のホラー小説の動向を見守っていきたいと思います。

それと最近、僕は19世紀末から20世紀初頭の黄金期に書かれた英米の怪奇小説に再び興味を持ち始めています。
代表的な物を再読しようと思っています。

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