私の余白は、私の物だ。余白こそ、宝物なのかもしれない。
人生を共に生きると誓った夫には、
全てを捧げるのが当たり前だと思っていた。
それは、私の余白も例外ではない。
ここでいう、余白は余力、すなわち、寄り道とか遊びとかそういったことというべきだろうか。
もう、とりあえず、全てなのだ。
私は、余白も全て夫に捧げた。
働きすぎな夫の体を自分のこと以上に心配して、食事はちゃんと摂っているか、睡眠時間は足りているか、と心配事が絶えなかった。
時間を数えるのが苦手な私は、1、2、3、4、、と手の指を使って、夫の睡眠時間をいつも計算するのが癖になっていた。
その姿を見て、
「お母さん、何を数えているの?」
と、こどもたちに不思議がられた。
だが、そんな生活を続けて行くと、共倒れした。
夫は自立神経が乱れ、パニック発作を頻繁に起こすようになる。
それを支えるために、これまで以上に私の余白全てを夫に捧げていたら、私のキャパをとうに超えて、生きていられないほど、私が無くなった。自分を失った。
私自身も睡眠不足、過労から、過呼吸、パニック発作を起こし、何度か救急車で運ばれた。
それでも、私は、夫に元気になってもらいたかった。
自分の全てを捧げても、自分の余白なんか無くっても、夫に健康でいてほしかった。
でも、自分を失って、死にかけて、気付いた。
私の余白は、私の物だ。
例え、夫であっても、こどもであっても、
誰にも渡してはいけない。
余白を無くすと、人は死ぬ。
私は死にかけて、余白の大切さに気が付いた。
息ができること、
今日がまた来ること、
当たり前の日常がどんなに大切かに気が付いた。
そして、余白は当たり前の日常、
こなさなきゃいけない日常ではない。
非現実、息抜き、ひとやすみ、それが、余白なのだ。
余白で、自分の時間を持った。
自分の好きを取り戻した。
“自分とはこんな人間だったんだ“を思い出した。
捧げた余白。
いつの間にか、余白を超え、自分を蝕んで、
何者でもなくなろうとしていた。
姿形さえも失うところだった。
余白を持ち、
余白を楽しむ。
それくらいで人生は生きていかないと。
死んでしまう。
それほど大切な余白。