ポストモダンと闘争〜「動物化するポストモダン」、「ファスト教養」から「きみの絶滅する前に」へ至る〜
かつて誰もが信じて疑わなかった"大きな物語"への信頼性が失われた世の中。同じ目標を志し、共通の話題で盛り上がれた時代はとうに去った。それでも次の世代は自分たちのために物語を必要とした。そして彼らなりのものを作り上げたが、それは先人から見れば"二次創作"、まがいものでしかなかった。戦後の日本人が"あるべき日本像"として描いたイメージが、すでに敵国であったアメリカ由来のものに塗りつぶされていたように。それでも私たちは、その"二次創作"によって形作られた世界で生きるしかない。
"二次創作"はまがいものであり、それ単体では"大きな物語"たり得ない。私たちはそれをよく分かっていて、だからこそ、種々の"二次創作"が持ち寄るアイデアを寄せ集めたり、極度に誇張したりせざるを得なかった。質に対抗するための量、とでも言うべきだろうか。
そして、それらを積み重ねていくうちに脳内に生み出される"大きな物語"らしきものは、今を生きるための慰みにはなったが、オーダーメイドであるが故に誰とも一致することはなく、したがって"大きな非物語"とでも呼ぶべき奇妙なすれ違いの台本を生み出した。私たちは、かつてのように同じものを見て同じものを志したはずだったのに、すべては異なっていたのだ。
そんな世間において、「A党とB党、主張は違えど国を思う気持ちは同じだ」などという言説はもはや成り立つわけがない。なにせ「気持ち」がオーダーメイドだからである。A党が捉えている「国」とB党が捉えている「国」が同じであるという確信は、感覚的なレベルですらもう誰も保証できない。その象徴としての先日の都知事選があったのだろう。あれはいったい、誰が、何のために、代表者を選んでいたのだろう。
「動物化するポストモダン」を読むと、今の社会を予言していたかのように感じる部分が多々ある。というのは今はじめてそれを読んだ自分のタイムリーな感想に過ぎず、よく考えれば20年前から社会の方向性は変わっていないということの現れかもしれない。"大きな物語の消失"と"無数の二次創作を通した脳内補完"の世界線は、オタクどころかすっかり世間を覆ってしまい、まだ誰も抜け出すことはできていない。
私自身、無数の"二次創作"によって形作られていることを自覚したからと言って、別に何ができるわけでもない。憧れてみたところで、まるで三次元の世界の存在に気づいてしまった二次元世界の住民のように、決定的な断絶の先にある遠い世界の断片を、「あの辺にあるのかな」と指を咥えて眺めているしかない。そうではなく、また別の何かを創造する必要がある。
やり方はいろいろあるのだろうが、世の流れを見ると、東浩紀自身に代表されるように、皆自分の小さいコミュニティから始める選択を取る。さて私はどうするかといえば、それはまだわからない。
「ファスト教養」で語られる世界もまた、「動物化するポストモダン」で予言されていたものだったのではないか、と思うところがある。"データベース的動物"の一形態が、YouTubeやらNewspicksやらで10分で身に付く教養を撒き散らすビジネスパーソン達のように思う。
大事なことは"教養を身につけているかどうか"ではなく、"教養を身につけていると見られているかどうか"になり、そこでは"教養"とは一つのデータベースでしかない。ガチャで引き当てたSSRを持っていることを自慢するのと同じように"教養を身につけていること"は扱われる。それは言ってみれば量の可視化以上のものは何もなく、内容は大して重視されない。(SSRに比べればまだ"教養"の方が蓋然性の高いものとして扱えるかもしれないが、いわゆる"親ガチャ"の視点から考えればそれもまた"運ゲー"なのかもしれない)
著者であるレジー自身はこれらを「すでに不可逆」な流れとして捉えている。一点留意したいのは、こうした「不可逆」な流れに対して著者自身は評価を留保していることであり、むしろ「教養主義」に走ることに対して警鐘を鳴らしていることである。そのスタンスから、著者が提唱するのは「『既存の枠組みから自由になること』と『既存の枠組みの中で戦える知識の習得から逃げないこと』の両輪を回す」という在り方である。東の言葉を借りれば、"データベース的動物"に対する警戒感を保ちつつ、ある種のいいとこ取りをしようという魂胆なのだろう。
この魂胆の裏には、著者自身がかつて堀江貴文的なものに強い影響を受けてきており、その人生を否定したくないというバックボーンが透けて見えるように思う。そのことはおそらく著者自身も自覚していて、したがって良し悪しは別として、著者の人生から導き出される結論はこうならざるを得ない。第六章以降はなんとも歯切れの悪い文章が並ぶように感じられなくもないが、これも言ってみれば「両輪を回す」ことの結果なのかもしれない。ある意味では、この「ファスト教養」は著者の自伝のような趣すら感じられる。
さて、この「両輪を回す」という提唱にはいささか脆さを感じざるを得ない。それはつまり、レジーの言う"既存の枠組み"とは冒頭の東の言説に見られる"大きな非物語"によって生み出されているものに見えるからである。例えば第三章において触れられる「自己責任論」的なものは、ポストモダンの文脈で考えれば80年代にはすでに始まっているムーブメントであり、2004年のイラク人質事件や堀江貴文の登場に伴う諸現象はその20年の蓄積の結果でしかない。この源流を探ろうとすればより深く歴史を潜り、その過程に触れていかなければならない。
レジーの生きた時代も、それに裏打ちされた"既存の枠組み"も、東の言説を借りれば"すべて虚構"であった時代である。虚構によって作り出されている"既存の枠組み"から"自由"になるというのが果たしてどういった状況なのか、私にはいまいちイメージが湧かない。それはそもそも"二次創作"から捻出されたオーダーメイドなものに過ぎないからである。
そう考えると"ファスト教養"なる定義づけさえ、ある一側面だけ切り取られた不安定なものに見えてしまう。あるいは、"好きを見つける"が処方箋として示されるように、オーダーメイドを見つけていくことが現代の在り方なのかもしれない。しかしそれでは"ファスト教養"が生まれる土壌自体は今後も変わらないようにも思うし、ここを包摂できるようなものが生まれていかないことには、我々は絶えず闘争を続けなければならないようにも思う。その闘争すらも肯定して生きていかなければならないのだろうか。
別に本著を否定したいわけではなく、ある視点から見たときに、もうちょっと別の切り口がありそうな気がするな、と感じた次第である。もちろん、この書籍が誰に向けて書かれているかを考えると、いささか野暮なことを言っているような気がしないでもないが。
「きみの絶滅する前に」第2話を思い出す。絶滅寸前に追い込まれ、人間に保護され繁殖させられた結果、ハワイカラスたちの葬儀におけるマナーが継承されなくなっていったことに対して、「絶滅するよりマシでは」と疑問を抱くカラスに対する、もう一話のカラスの逡巡。
これもまた評価を留保しているが、どちらかといえば全編通して「大きな物語」が失われていくことに対する哀歌、そしてその取り扱いに対するささやかな抗議…のようなものにも感じられる。時間が無いのでここまでにするが、これら3つで語られるものには何か通底するものがあるように自分には感じられる。それは果たして「大きな物語」にはなり得ないのだろうか。