【旅行】仙台苫小牧ドンブラコ −16− アイヌの村
ウポポイには博物館だけでなくさまざまな体験型のプログラムが用意されている。
今回は朝から夜7時までしっかり時間を取っているので、なるべく色々なものを見てみよう。
まずは音楽を聴こう。
敷地内にはかなり立派な音楽ホールがあって、ステージの背景にはポロト湖が借景のように配置されている。
なおウポポイのこういったプログラムは基本的に撮影禁止なので写真を残せないのが残念なのだが、その分目と耳にしっかり残してきた。
このステージは大変よくできているもので、ステージ背後の暗幕を閉じると完全に暗くなり、あらゆる方向からプロジェクションマッピングを行うことで、まるでアイヌのチセ(伝統的な家屋)の中にいるかのような演出になっている。
やがてアットゥシという民族衣服を着た演者が5人ほど出てきて、伝統歌謡を披露する。
アイヌ音楽はかなり昔に聞いたことがあるきりで、半ば忘れていたのだけれども、改めて聞いてみるとなんとものんびりとした旋律が疲れた体に心地いい。
日本の本土の民謡とは全く異質なもので、少ない音階で組み立てられた旋律の繰り返しが印象的だ。
歌っている方は日本人そのものなのだけれども歌の言葉は全く理解できないアイヌ語で、そうか日本の文化にはこういうものもあるのかと改めて新鮮な思いがした。
他にもいろんなプログラムがあって、参加するためには予約をする必要があるので、まとめて予約を入れてしまおう。
音楽ではムックリと呼ばれる口琴と、トンコリという五弦琴の体験ができるので、これはぜひやりたい。
特にムックリは以前大阪の民族学博物館のミュージアムショップで現物を手に入れていて、独学でなんとか音を鳴らせる程度にはやっていたのだが、やはりちゃんとした指導をしてもらう方が間違いはない。
それから料理の体験もできるようで、団子を作るプログラムにも予約を入れておいた。
今回はお盆ということで逆にあまり混んではいなかったようだが、夏休みは基本的に来客がごった返すので予約も当日では難しいらしい。
アイヌのコタンには住居であるチセのほか、プと呼ばれる食糧庫と小熊を飼っておく檻のような小屋があって、建物といえば大体これで全部だ。
コタンはアイヌの生活様式が失われる昭和初期くらいまで概ねこのようで、和人の支配を受ける前も同じようなものだ。
これでピンと来るのが、内地の縄文時代の集落との類似性だ。
チセは茅葺の屋根を持ち壁も茅でできている住居で、後に板張りとなる床も当初は土間で、ちょうど竪穴住居を同じ素材の壁で持ち上げたような構造をしている。
また食糧庫はネズミ等による食害を防ぐために高床式となっているが、これも縄文時代とよく類似している。
文化圏として同じであるのか、またこういう構造は東アジアに同時多発的に考案されたものなのかはわからないが、共に狩猟採集の生活スタイルであることをよく示している。
ここで私が印象的だったのはプ(食糧庫)の小ささだ。
せいぜい1−2畳程度の広さに過ぎず、扉は施錠できるものではないので、セキュリティに特に留意したものではないことがわかる。
これは、人類が富を蓄積するにはかなり制限があった時代のものであることを示唆しているようで興味深い。
これが内地の弥生時代ともなると稲作によって人々は飢餓から解放され、さらに富の蓄積が可能となったことから更なる大集団を組織できるようになり、これがやがて原始的なクニというものに発展していく。
そのため収穫された財物すなわち稲の実を保管するための高床式の倉庫も大型化し、静岡県の登呂遺跡では12畳ほどもある大きな高床建築の存在も確認されている(ただし神殿であった可能性あり)。
そうなると、人々は更なる富を得るためによそのムラを襲うようになる。
稲作は襲えるだけの人数を養えることができるようになったということだ。
そのために弥生時代のムラは環濠集落といって周囲を周濠と土塁で守る砦のような構造になっているのだが、これはムラ同士で争いが日常的にあったことを意味する。
翻って、アイヌのプは総じて小さなもので、またコタンの周囲を周濠で囲むようなこともなかったことから、どうやらアイヌの社会は構造的に戦争とは無縁であったらしいことがイメージできるのである。
どういうわけでそのような社会構造が近代まで維持できたのかはさまざまな理由が考えられるであろう。
まずは北海道が狩猟採集に大変向いている土地で、海や山で食料を得やすかったということが挙げられるかもしれない。
ただ、それだけではこれほどまでに財の蓄積に執着しない社会が維持されたとは考えにくいので、より大きなファクターの存在を考えるべきだ。
実際アイヌは中世より和人との交易を経ることで鉄製品やその他自分たちでは作ることができない道具を入手していたのだが、より多くの財を求めて社会を拡大していった形跡が認められない。
それを説明できるキーワードがカムイという概念ではないかと考えている。
カムイとは一般に「神」と訳されているが、その概念はどうやら宗教的なシンボルではなく、「自分たちに役に立つもの」ということらしい。
例えば動物もXXカムイと呼ばれるものが多いが、これは総じて生きていく上で肉や毛皮を提供してくれるものという考え方によるものだそうで、天から遣わされたものがクマやその他の動物の形で地上に送られてきたと考えられてきたそうだ。
カムイは何も動物だけでなく、例えば刃物などの道具もそうで、これがあるおかげで何かができる、というものが大体カムイと呼ばれるらしい。
そうであるから、あまり欲張ったことをすると天が怒って次からカムイを送って来なくなると考えることで、身の丈にあった分しか取らないという思想が生まれることになる。
つまり、「足るを知る」ということが生活の基本原理になっている社会であるといえるだろう。
こんにちのオーガニック系食料品店では「天からの恵みが云々」といったことを枕詞のように謳っているようだが、これを数千年実地でやってきたのがアイヌの文化であるようだ。
執着がない生活というものが数千年に渡って続けられてきた背景には、こうした考え方が無縁ではないと思う。
無論人間によって構成される社会であるから個別の事象として強欲なものが不届な行為に及ぶということは当然あったであろうから、伝統的な制裁の手段も持っていたのだが、財を蓄積して常備軍を持ちヨソのムラを襲うというようなことを恒常的には行わなかったことは、チャシと呼ばれるアイヌの砦(祭祀の場ともいわれる)のごく単純な構造を見ても分かることだ。
このカムイという概念をよく表しているのが、イヨマンテと呼ばれる熊送りの儀式だろう。
狩で親子の熊を発見した場合、小熊は殺さずにコタンに連れて帰り、人間と同じように大事に育てる習慣があった。
これは、クマはキムンカムイ(山の神)と呼ばれ、天から毛皮や肉をもたらしてくれた神の化身なので、次からも来てもらえるように小熊には人間の世界をぜひ楽しんでもらいたいと考えたようだ。
それで、ヘペレセッと呼ばれる丸太の小屋である程度大きくなるまで育てるのだが、大きくなったらイヨマンテという祭りで天に送り返すことになる。
送り返すというのは、実際には屠殺することだが、アイヌにとっては「どのように送り返すか」が重要で、世話していた人などは泣き出すこともあったようだが(絵に残っている)、基本的にはこの世を楽しんでくれたから天に帰ったら仲間にここがいかに楽しかったかを伝え、またこの世に仲間を連れて下って来てくれろということが主旨のものだ。
迷信であると一笑に付すのは簡単だが、そのことによって何事もほどほどに済ますという社会が営まれてきたことを考えると、ある意味現代において得るものは少なくないのではないかと思う。
21世紀の今になって、断捨離や環境に配慮した持続可能な生活というものが注目されるようになってきたが、そんなことは数千年に渡ってアイヌ民族がやってきたことでもあるのだ。
それでは、チセと呼ばれるアイヌの家に入ってみよう。
チセは基本的に茅葺で、壁も茅を束ねたものでできている。
中では案内の人がいて、イランカラプテ(こんにちわ)と挨拶してくれる。
ウポポイではこの挨拶が習慣になっているようで、また職員さんもアイヌ語の名前というか通り名のようなものを持っているのが面白い。
アイヌの名前の付け方は面白くて、ちゃんと意味を持っている。
それで、職員さんが和人であっても元の名前に響きが似ていて自分を表す、例えばXXが得意であるとか人物の特徴であるようなことをアイヌ語の名前として持っているようだ。
ちょうど北米インディアンの酋長でSitting Bull(座り牛)という通り名の人がいたが、そういうイメージに近いかもしれない。
このチセにいた女性のガイドさんはアイヌ系の方ということで詳しく説明をいただいたほか、色々興味深い話を聞かせてくれた。
チセの奥まったところにある一角は宝物を置く場所と決まっているそうで、ここには家財のほか和人との交易で得た貴重品などが置いてある。
本土からやってきた我々には結構馴染みのあるものが並んでいて、漆塗りの膳や櫃など、こちらの民具で見られるものそのものだ。
聞けばアイヌには漆を使う習慣はなかったとのことで、もし漆そのものを持っていたとしてもわざわざ産業にすることはなく、必要であれば和人と交易すればいいと考えていたらしい。
また和人との交易品で意外なものがあった。
壁に掛けてある刀だが、その屈曲はどこから見ても日本刀のものだ。
ただし拵え(刀の外装)はアイヌ式だ。
アイヌには金属加工の技術がなく、また砂鉄は取れたに違いないのだが、砂鉄を集めて鉄を作るたたら製鉄は大変な自然破壊を伴うものなので、アイヌの伝統として行わなかったのだろう。
そのため、刀身と鍔は日本のものだが外装と使い方は全然違うということになる。
刀の佩用の方法も変わっていて、太い帯の両端を鞘に取り付け、肩に襷にかけるように佩刀していたようだ。
これは山刀として使ったのですかと聞くと、祭祀用とのことで、つまりはチベット族やウイグル族が儀礼用に今でもナイフを腰に差しているようなものらしい。
アイヌは貨幣を使う習慣がなく、和人との交易は基本的に物々交換となる。
また、必要なものを必要なだけ手に入れるというようなものであったようで、大量に仕入れて在庫を積み、これを転売して財を得るというようなこともなかった。
商業という概念がおそらくなかったのだろう。
このガイドさんは若い女性だったが、自分のルーツに誇りを持っている様が大変心地よかった。
ムックリも今練習していて、もう少し上手になったらムックリ奏者としての仕事もできるようになると笑っていた。
話す言葉は当然現代日本語なのだが、この人に我々のような内地から来た和人はどのように見えているのだろうかと興味深く思った。
さて体験学習の時間にはまだ早いが、昼食をとっていなかったので、そちらに移動しよう。
つづく
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