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断捨離の「離」に抗う心は手放せない
年末の足音が聞こえてくる季節になると、世の中のそこかしこで囁かれる言葉がある。
それが「断捨離」。
そもそも断捨離という言葉、パワーワードのよせ集めすぎる。
「断」も「捨」も「離」も強い。
勝手な想像だけど、剣道とか得意そう。
そんな三番勝負でコテンパンにされそうな「断捨離」を毎年のように計画するも、毎年のように頓挫してしまう自分にとって、この時期はソワソワと落ち着かない気分になる。
毎回、体感としては「断捨」くらいでストップしている気がする。
どうしても「離」れるところまでいかない。
たとえば、読みおわった小説。
自分はもっぱら紙の本派なので、購入した小説やエッセイは一年を通して本棚を圧迫しつづけている。
春先くらいからとうにキャパオーバーだった本棚を見かねて、先月ようやく本棚を整理したのだけれど、年々、心に残る大切な本が増えていくため、すぐに本棚は圧迫された元どおりの姿に戻ってしまう。
今も見て見ぬふりをしている。
◇
実際のところ、本を読みかえすことはあまりない。
なぜかというと、積みあがった本がこちらを見ているから。
それでも、ふと視界に入る本棚にお気に入りの小説が並んでいる風景は、心の安定のためにどうしても必要なもの、生活空間を彩ってくれるものに他ならない。
それにnoteやSNSなどで読書感想文を書きはじめてからは、ある程度、作品への想いを手元に残せるようになったので、以前よりは本の整理も滞りつつある。
ただ、今でも手元を離れていくモノへの未練は抱えているし、それ相応の勇気を携えて大鉈を振るってはいるものの、やっぱり一抹の寂しさを感じる時がある。
だからこそ、離れていくモノへの「想い」まで手放す必要はないと最近は思う。もはや開きなおっている。
師走になって「断捨離」という言葉は一層、脳内にこだましているものの、思い出は思い出のまま「離」さずに心のすみっこに残しておきたい。
それが、自分の「断捨離」に対する
持ちつ持たれつな付きあい方なのかもしれない。