見出し画像

2024-07-15 杉本苑子「散華 紫式部の生涯」

ほぼ、まったく小説の内容は書いてません。小説のネタバレを嫌う人も安心して読めますよ。

年が明け、新しい大河ドラマの初回放送のあと妻とぼくは顔を見合わせたまま、しばらく痺れていました。ちやはの絶命させた剣は、ぼくらの胸をも貫いたのです。翌朝、SNS には、衝撃を訴える感想で溢れていました。そのなかでも小学生のときから何目も置いてきた Y さんの記述(汚れを忌み嫌う平安貴族が自ら手にかけるものですか、みたいな)を読んで、己れの浮わついた浅き教養が俄かに恥しくなりました。

すぐさま反省して、ドラマはドラマとして楽しみつつ、それとは別にその時代についても学びたいと思い、ドラマの時代考証を担当されている倉本一宏先生の「紫式部と藤原道長」という日本史の啓蒙書を買ったものです。

ところが、4月にかけて本務が急がしくなったもので、ドラマの進展に沿って読み進むのもやっとという具合でした。

仕事がすこし落ち着いたころ、母から薦められたのが本書、杉本苑子「散華」です(5月29日購入)。こちらは啓蒙書ではなく、紫式部の生涯を描く小説です。ドラマの主人公がまひろだけど、小説の主人公が小市。小説には乙丸も、いとも、盗賊団のイケメンの首領も出てこないし、小市の母親が藤原道兼に惨殺されることもないし、藤原宣孝はドラマほどよい男に描かれてません。倉本先生の本も面白いのですが、小説の方が読み易く、一気に没頭してしまいました。

ドラマでは、中関白家が瓦解するなか独り残される中宮定子の絶望を慰めるために筆を取った清少納言が、あの有名な四季の描写を綴り始めるシーンがありました。大河ドラマ前半の名場面です。散華でも小市が物語の構想を描くきっかけは、彼女にとっての取り返しのつかない事件でした。彼女は著者と読者の緊張関係に悩みながら筆を取り、その評判を受け止めあぐねつつも筆を進め、読ませる小説から吐露する小説に昇華させることで筆の着地点を見つけます。

小説には紫式部の同時代人として清少納言、和泉式部も登場します。日本文学史のなかで女流文学がひときわ輝いた時代を背景にした小説の執筆にあたって、著者はある種の恐怖に包まれたことでしょう。そのなかで「ひとはどうして小説を書くのか」「だれのために小説を書くのか」「なんのために小説を書くのか」「小説の価値とはどのようなものなのか」といったさまざまな小説についての疑問が流れているような気がします。源氏物語をまえに、そういったものを意識せざるを得なかったのでしょう。

この小説は一級の読み物として読めるし、ドラマと比べながら平安中期を立体的に眺める視点が得られます。ドラマをより深く楽しめると思います。でも、読み終えてみると、これは壮大な文学論だったことに気づかされているところです。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集