Pさんの目がテン! Vol.78 久しぶりの登場ですが一旦CMです(Pさん)
カフェインの離脱症状を、いつも休日の夕方に感じる。カフェインにそれほど顕著な離脱症状が実際にあるのかわからない。離脱症状というのは、広く言って何かの化学物質の濃度が低位に変化することによる精神的作用のことだと思う。人間と人間の脳というのはずっと黄緑色の液体に満たされたビーカーに使っているSFのような情景そのままであるように、実際に様々な化学物質の混合した液体に浸されているわけだから、その濃度の変化というのが決定的に作用するというのは道理であり、離脱症状という用語が持つ専門性からもっと一般的に広がっていいように思う。人間は流れの中で生きている。使い古したネルの色が茶色く染まっているように、何となくその、カフェインに浸されている脳が茶色く染まっている景色を思い浮かべるけれどももちろん科学的にはその想起は間違っている。カフェイン自体は無色透明の結晶で、水溶液もそうだ。茶色い色素は脳血管の関所である血液脳関門を通らない。これは想像で言っているので実際にそうなのかはわからない。とにかく短絡的な想像というのは大方間違っているけれども、人間は自分自身を象徴的にあるいは映像的に理解することをやめられない。自己イメージの単純化というのは、しかしやめるべきものではなく必須のものであるらしい。でなければ、拭い難く残るということもないだろう。中沢新一がチベット密教を通じて得た経験から書く、「風の卵をめぐって」にもこう書いてある。
「風の究竟次第」や「管と風」のような密教身体論は、そのリゾーム状連結体をとりあえずひとつの構造体とみなすことによって、タントリズム生理学の見解を「プラグマチック」に活用しようとするのである。(……)タントリズム生理学の記述とは、かならずしも一致していないのだ。
(中沢新一『チベットのモーツァルト』、「風の卵をめぐって」159ページ)
プラグマチックとは、間違っていてもいいからとりあえず使うという意味である、これも粗雑な理解だ。現実と合っていなくてもいいからとりあえず使う。イメージの価値は、それが正確であるとかいったことよりも、イメージの中での価値基準で計られなければならないと思う。有用であるのかどうか。話を戻すと、カフェインの離脱症状は一抹の寂しさとか、焦りみたいなものと結びつく。こう書くと、何かの作用というよりも具体的な対象を持った観念と結びついているのかもしれない。それが有用であるならば、そういうイメージをもってもいいだろう。