愛犬を亡くして誕生日が嫌いになった話。
皆さんこんにちは。
今回は、本日9月17日は私の誕生日ということで、誕生日に関しての実体験をブログのように、小説のように、備忘録のように、書いていこうと思います。
いつものエッセイのように"ヒントになる"ということはないと思いますが、逆に"反面教師"には出来るかもしれないので、是非最後まで読んでくだされば幸いです(なんならお祝いコメントしてくれてもええんやで)。
⚠️動物や人間の死に関する表現が含まれますので、苦手な方はブラウザバックをお願いします。
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私が小学四年生の頃。
間近に迫ったクリスマスに、街中が染まっている頃。
母親の同僚から「飼っている犬が子犬をたくさん産んだんだけど、一匹引き取らない?めいちゃん、犬好きだったでしょ?」と連絡があった。
ずっと犬を飼いたいと思っていた私は電話を聞いて大興奮。「まだ引き取るって決まってないから!」という母の声を無視し、兄と名前の候補を考え始めた。気が早いとはこのことだ。
「『ポチ』がいいかな?それとも『タマ』がいいかな?」と、自由帳に色んな名前を書いた。兄が「タマは猫やろ!」とつっこみ、二人で笑う。名前を考えているだけで楽しかった。
そんな矢先、まだ続いていた電話で母から思いもよらない一言が出る。
「うち子犬を育てられるほど人間が出来てる奴なんて居ないから・・・。」
待て!なに断ろうとしている!あと失礼!ちゃんと出来るもん!・・・負けず嫌いな私は、母のこの一言によって更に犬が飼いたいという気持ちを募らせ、母の横で子供らしく駄々を捏ねた。
母は、動物があまり得意でなかった。だから乗り気じゃなかったのだ。そんな母をあの手この手で説得し、大プレゼンをかました結果、ついに交渉が成立する。
「わかったわかった!けど条件があるよ。それを守れなかったらすぐに返すからね!」
その条件とは子供向けアニメでよく聞くフレーズそのものだった。
『ちゃんと責任を持ってお世話すること』
後で後悔するとはつゆ知らず、こんな条件楽勝じゃん!と余裕ぶっていた私は「折角だからクリスマスにお迎えしない!?」と脳天気な提案をし、25日に約束を取り付けた。
それまでに子犬に必要なご飯や、ご飯入れ、水入れ、トイレシート、おもちゃなどを沢山買って、新しい家族を迎える準備をし、いよいよ迎えたクリスマス。
母に連れられてやってきたその子は、マルチーズとシーズーのミックス犬で、両手に乗れるほど小さい小さい真っ白なオスの子犬だった。
様々な名前を考えた結果『レオ』と名付けられたその子は、少し緊張している様子ではあったものの、人懐っこい性格で初日から私の膝に乗ってきたことを今でも覚えている。
私は、新たな家族が増えたことが嬉しくて嬉しくて、必要以上に散歩をしたり、四六時中おもちゃで遊んだり・・・。まるで私が遊んでもらっているかのような毎日だった。今思うと、そんな毎日がとても愛おしいものだったと感じる。
レオは、いつまで経ってもトイレの場所を覚えないし、悪さをするし・・・。
「こら!めい!レオ!」
家の中を走り回っては母が私達をまとめて叱る。それまでも毎日やんちゃをして母に怒られていた私は、一緒に怒られる仲間が出来たかのような感覚だった。ペットは飼い主に似るというのは、本当なのかもしれない。
まさに、双子の弟。
レオと私は、性格が似ているだけでなく、誕生日が同じという奇跡も持ち合わせていた。生まれ年はもちろん違うものの「同じ誕生日なんだから"双子"だよね!」なんて、よく話したものだ。
それから毎年9月17日は私とレオのケーキが用意され、盛大なお祝いをするのが定番だった。
それから時が経つにつれ、四六時中遊ぶことも減っていき、だんだんと"姉弟離れ"が進んでいった。中学に入ると、私は部活動のバスケに熱中し、朝も晩もボールに触れる毎日になった。
辛うじてまだこの時は、忙しさを理由に後回しにすることもあったが、お世話は欠かさずやっていた。問題が起き始めたのは中学二年の夏。
あることをきっかけに部活動を辞めた私は、夕方に起きて遊びに出掛け、朝に帰ってくるような不良少女へとなってしまった。そして、レオのお世話も完全に家族に任せてしまうようになったのだ。
母の条件は全く達成出来なくなったわけだが、既にレオは家族の一員として皆から愛されており、返すという選択肢をとられることはなかった。だからといって胸を撫で下ろしている場合ではない。
レオのお世話を放棄した挙句、自分はおまわりさんのお世話になっているのだから本当にどうしようもない。母も、ここまで見事にかすることもなく条件を破ってくるとは思いもしなかっただろう。オーバーキルにも程がある。
それに、ただの朝帰りの不良少女ならまだ可愛いものだが、当時悪い友達と絡んでいた私は、リストカットというものを覚えてしまった。更にどうしようもない。
後にこの自傷癖が自分の中で脅威になることもしらず、その頃の私は"ファッションメンヘラ"と言わんばかりに自傷を続けては「血を見ると生きた心地がする!」など訳の分からないことを口走っていた。今の自分が当時の自分に説教を出来るならこう言いたい。
「生命の重さも知らないクソガキが!」と。
次第に自傷癖が常習化していき、自分でも手に負えなくなってきていた中学三年生の春、家の都合で引っ越しをすることになった。その背景には娘の前では語らない、両親の想いがあった。
「環境が変わったら、めいも変わってくれるかもしれない。この引っ越しがいいきっかけになるといいね。」
こんな両親の会話を聞いたことがある。私の自傷癖に気付いていたのだ。親不孝な娘だった。心配を沢山かけていた。しかし、近い将来にそんな娘思いの母の一言によって、私の自傷癖がエスカレートすることになる。
引っ越しは無事に済んだが、引っ越し先のマンションではペットが飼えなかったため、祖父母の家にレオを預けることになった。幸い、祖父母の家は徒歩で通える距離だったので、たまにレオに会いに行くような日々が続いた。
そして、確かに環境はガラリと変わったけれど、私の自傷癖は、増えることもなく、減ることもなく。依存はしていないけど、やめることも出来ない・・・といった状態で、あまり変化は無かったように思う。
そんな日々を一年程過ごしたある日、祖母から「レオの様子がおかしい!」と連絡がきた。様子を見に行くと、レオの身体に黒い斑点が何箇所か浮き出ていて、とても痒そうにしている。
これは何かの病気ではないか?と、すぐに動物病院に連れて行った。すると、まさかの病名が。
『皮膚がん』
私の家は、祖父の経営していた会社の倒産を経験していて、とても治療費を払える環境ではなかった。後から聞いた話だが"私が変わるかもしれない"というのは後付けであって、本当は家のローンが払えなくなり、自己破産をしたため、引っ越さなければならなかったということだった。
レオの治療について、詳しいことは教えてもらえなかったが、痛み止めや痒み止めなどの対処しかしていなかったと思う。
そんな対処だから当然といえば当然だが、レオの皮膚はどんどん黒くなり、真っ白な毛はどんどん抜け落ち、とても見れる状態ではなくなっていった。そして、ついに母が決断する。
「保健所に連れていこう。」
その頃、既に高校生になっていた私は必死に止めた。「バイトでも何でもする!悪い友達ともう絡まないで真面目に働く!」と。
それでも母の意志は固かった。
「苦しんで死ぬのを待つくらいだったら、早く楽にしてあげよう。めいが稼いでも、間に合うかわからない。」
そう言われた。私は何も言い返すことが出来なかった。
そして、保健所に連れて行く朝。
祖父母宅へとレオを迎えに行き「散歩行くよ!」とリードを持つと、いつもだったら尻尾を振りながら走ってくるレオが、嫌がって部屋から出てこない。無理矢理抱っこし車に乗せた後も、私の脚の上でずっと震えていた。きっと察していたんだろう。
保健所についてからの記憶はあまりない。ただ一つ覚えているのは、母が帰りの車で私に放った言葉。
「あんたが殺したんやで。」
ただ一つ、この言葉だけ。
母も、この日のことをあまり覚えていないと言う。私に放った言葉も、その意味も。まるで覚えていなかった。動物が得意ではなかった母ですら、レオの死は相当くるものがあったのだろう。
『ちゃんと責任を持ってお世話をすること』という条件で引き取ったレオという命を、私が亡くした。責任がとれないなら、自分で言ったことも守れないなら、命を望むんじゃない。生半可な気持ちで望んでいいものじゃない。
母は、そんな命の大切さを教えてくれたのだと今では理解が出来る。しかし、その頃の私はそこまで大人ではなかった。
母の同僚の元でそのまま暮らしていたら、レオはこんな最期を迎えなかったかもしれない。私がしっかりお世話をしていたら、病気に早く気付いてあげられたかもしれないし、病気にならなかったかもしれない。私がしっかり責任を持てなかったから、レオは死んでしまった。私が、殺した。
私はそう、自分を責め続けた。そして、その日を境に、リストカットをする際の記憶がなくなるようになった。
そこから数年間ものあいだ、私はリストカットをし続けた。記憶が飛んでしまうから、自分ではもう制御が出来なかった。
そして、毎年9月17日が来るのが怖いと感じるようになった。レオと一緒に祝うはずだった誕生日が来る度に絶望し、後悔した。嬉しいはずの誕生日が、絶望の日へと変わったのだ。
ある友人は、当時の私の様子をこんな風に言う。
「めいは9月になると、毎年様子がおかしくなって、誕生日が近付くにつれ、何かに怯えたような目をする。」
私はきっと"命"に怯えていた。命を宿した日を迎えることが、命を宿した意味を考えることが、何よりも怖かった。だって私は、命を軽んじているから。軽んじてしまったから。
自分だけ祝われるだなんて、自分だけ生きるだなんて、レオが許してくれるはずがない・・・祝われるべき人間じゃ、ここにいていい人間じゃ、ない・・・。そう思っていた。
そんな私を絶望から救ってくれたのは、私の目を見てくれていた友人の言葉だった。
「それだけ悔やんで悲しんでくれたら、レオもきっともういいよって言うと思うし、なんなら最初から怒ってないと思うよ。そして、お母さんがせっかく命の大切さを教えてくれたのに、まず自分の命を大切にしないでどうするの?それこそレオは悲しんでると思うよ。レオのことを悔やんでいるなら、レオの分まで生きてあげなきゃ。」
ハッとした。こんな当たり前のこと、言葉を掛けられなくともわかるようなことかもしれないが、当時の私はそれさえも言われて初めて、ハッとした。
自傷で記憶が飛ぶようになってから、こんな風に真剣に私に言葉を掛けてくれる人は居なくなっていた。きっと、呆れられていたんだろう。今、自分で書いていても呆れるほどなのだから。
だからこそ、ものすごく胸に響いた。一語一句忘れずに胸の中に大切にしまってあるこの友人の言葉に救われ、そこから少しずつ少しずつ、前を向けるようになった。少しずつ少しずつ、変わっていけた。
そして、現在。
もう10年以上も自傷の為にカミソリやカッターは握っていない。それでも私の左手首には、未だくっきりとリストカットの跡が残っている。まるで"忘れるな"と言わんばかりに。
レオのことは一日たりとも忘れたことがない。忘れられるわけもない。
自分を責めるのはやめた。命を軽んじていた事実を受け止めて、過去を背負うことにした。そうすることで、母になり新しい命に名前をつけることになっても、永遠にレオのことを忘れないと思うから。
レオの死を決して無駄にはしない。レオが居たから、学べた。レオが居たから、私は今も生きている。レオの為に、私は死ぬまで生き続ける。今はそう思えるようになった。
大嫌いになってしまった誕生日には、毎年レオが何処かで生まれ変わって幸せに暮らしていることを祈りながら、小さく「おめでとう。」と言って、自分が祝ってもらえる幸せも、噛み締めることが出来るようになった。
母に命の大切さを教わり、友人に救われ、飼い犬に支えられた私の人生は、決して褒められたものじゃない。
でも、そんな間違いだらけの人生を、少しでも誇れるように。怯えてばかりの過去の自分を、少しでも勇気づけられるように。レオに顔向けが出来る生き方をするために。最後にレオと自分自身にこの言葉を送る。
お誕生日おめでとう。
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というわけで、今回は批判覚悟でこの記事を書きました。誕生日に批判覚悟の記事書くなんてドMなのか?と疑いたくなりますが(笑)、今日だからこそ書く意味があると思い、投稿しました。
私の記事はなんていうか、基本的に自業自得だし、読んでくれている人の中には"悲劇のヒロイン"のようにうつっているかもしれません。
でも私は"悲劇"を"喜劇"に変えるのは自分自身だと思っているし、過去にどんなに悲しい出来事があったとしても今が幸せならそれは「ハッピーエンドだろ!」と思っています。
だから私を反面教師にしたり、同じ経験をしている方はヒントを得てもらって、そのハッピーエンドや喜劇を一緒に目指していけたらいいなと思い、このnoteを始めました。
今でも今日という日が怖くなる時もあります。それでも、友人の言葉やこれまで支えてくれた人達のおかげで、毎年有難いことにこの日を迎えられています。
そして、いつもnoteを読んでくださる方々がいるから、今日もこうして記事を書くことが出来ています。
他のSNSでの応援もいつも励まされています。私が今、色んなコンテンツを通じて様々なことを発信出来ているのは、紛れもなく皆様のおかげです。
改めて、いつも応援してくださり、暖かい言葉をくださり、ありがとうございます。まだまだ未熟者ではありますが、これからもマイペースに活動していくので応援していただけたら嬉しいです。
一緒にハッピーエンドを目指しましょう。悲劇のその先へ。
今日はレオの日なので、TikTokに優里さんの【レオ】をあげました🐶良ければ聴いてください。