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愛されず、愛された女性の話。





皆さんこんにちは。


祖父が空に旅立って約9年、祖母が空に旅立って約1年が経とうとしています。果たして早かったのか遅かったのか。祖母の旅立ちは未だに実感がないものです。祖母が住んでいた団地近くのスーパーに行くと「おお〜!めいちゃん久しぶりやなぁ〜!」と元気な祖母にまた会えそうな気がします。

今回はそんな祖母のお話をしようと思います。

愛されず、愛された」とは一体どういうことなのか。一人の女性の葛藤と人生を書いてみます。ぜひ最後までお楽しみください。



人間像と生い立ち



まずは、祖母の人間像と生い立ちからお話していきます。

祖母の生まれ年は昭和15年、終戦の日から5年前。出身は大阪なので、大阪大空襲も経験しています。自分の祖母が経験していると考えると、ものすごく最近の出来事なのだと実感しますね。

しかし、祖母は幼かったため戦争の記憶はほとんど無く、幼少期の記憶といえば「お腹いっぱい食べたことがない」と言っていました。

そのためか、祖母の家に行くと「いつ食べられなくなるかわからないのだから、食べられる時に沢山食べておきなさい」と、いつも色んなおかずを出してくれました。私は祖母の作るきんぴらごぼうやひじき煮、焼肉レタスチャーハンが大好きでした。


祖母は大家族の長女として生まれ、性格はというと、面倒見がよく、責任感と気が強い。しかし決して生粋の姉御肌というわけではなく、少し天然で抜けている部分もあり、誰とでも仲良くなれる天真爛漫さも持っていて、孫の私から見ても魅力的な女性でした。思ったことをそのまま言ってしまうデリカシーの無さだけが唯一の欠点かもしれません(笑)



若い頃はスナックのママをやっており、その美貌とキャラクターから大変人気だったそうです。当時の写真を見たことがありますが、目が大きく華やかで派手な化粧がよく似合う、セレブママという感じでした。デヴィ夫人の若い頃に似ていましたね。

祖母は昔から歌が大好きで、よくカラオケに連れて行ってくれました。私が歌を好きになったのも、祖母の影響が大きいのではないかと思います。でも祖母は少し変わっていて、プロの歌を聴くというより、自分がカラオケで歌った音源を録音したものを聴くのが好きでした。私も酒やけを起こした大変ロックな声の演歌をよく聴かされていたものです(笑)

そんな自分が大好きな祖母の人生は、ある人から見ると幸せで、またある人から見ると不幸せ。そんな人生でした。



納得出来なかったお見合い結婚



祖父母が結婚したきっかけはお見合いで、昭和39年、祖母が24歳になった頃。25歳の頃に私の叔母にあたる母の姉を産み、27歳の頃に私の母を産みました。

祖父は祖母と同じく気が強い性格で、一度決めたことは誰に何を言われても曲げない、頑固オヤジとして有名でした。似たもの同士といいますか、同族嫌悪といいますか。元々喧嘩が多かったみたいですが、母達が成人を迎える頃にはすっかり冷めきっていたそうです。

私がまだ幼い頃、祖母に「じいちゃんとなんで結婚したん?」と聞いたことがあります。祖母は「じいちゃんしか居なかったから」と答えました。当時の私はフゥー!くらいに思っていましたが、大人になって別の意味だったのだと気付くことになります。


祖父しかいない。それは"自分にはこの人しかいない""この人じゃなきゃダメなんだ"という盲目からくるものではなく、本当の意味は"唯一結婚させてもらえる相手が祖父だった"。

私が何故これに気づいてしまったのかというと、祖母が生前言っていた「一度も好きだと思えたことがないし、愛された記憶もない」という言葉。また、祖母の口癖は「いつか離婚してやる」でした。孫としてはとても聞きたくない言葉であり、聞いた当時はショックで悲しかったことを覚えています。


きっと、お互いがお互いに納得していないままのお見合い結婚だったのでしょう。そしてそれは、死別するまでただの一度も解消されることはなく、仲が緩和されることもなかった。そう、死別するまで。約9年前に祖父が空へと旅立ったあの日まで、約50年もの間、祖母は不満を漏らしながらもキッチリと妻としての務めを果たしました。



祖父の事故と周りの変化



祖母が妻として、母として、務めを果たさなければいけないと強く感じたのは、祖父の事故がきっかけだったといいます。


祖父母は昔、町工場を経営しており、バブル期も相まってかなりのお金持ちだったそうです。毎月のように旅行に行き、母もお金には困ったことがなかったと言っていました。

祖父も祖母と同じように大家族のうまれなので、親戚がとても多く、お正月やお盆の時期は大人数が集まります。その上、祖父母は社長と社長夫人のため、親戚中に大盤振る舞いし毎回お祭り騒ぎだったようです。その裕福な生活が祖父の事故をきっかけに一変します。



いつものように祖父が仕事をしていると、その日朝から体調が悪かった祖父は立ちくらみを起こし、そのまま2階から1階へと転落しました。祖父の営んでいた町工場はとても天井が高く、2.5〜3階に相当する高さだったとのこと。

打ちどころが悪く一週間程生死を彷徨いました。そしてようやく目を覚ました祖父は、これまでの頑固オヤジの面影はなく、ぼんやりした優しいおじいさんへと変わっていたそうです。

(祖父については以前投稿した実話を基にした小説「アオイソラとソフトクリーム」にて詳しく書いていますので是非チェックしてください)


事故がもたらした影響は、祖父の人格だけではありません。営んでいた町工場は倒産し、家族のほとんどがそこに従業員として在籍していたため、一家丸々職を失ったのです。

私の父も働いていたので、職を失い、買ったばかりの家のローンを払うことが出来ず、貯金を切り崩した数年後、私の家族は自己破産に追いやられました。


更に、失ったのは職と家だけではありませんでした。身内とも言える人間関係の崩壊です。具体的には親戚からの見る目がガラッと変わります。これまでは「社長、社長」や「夫人、夫人」とからかい混じりに関わってきていた親戚が、愛想を尽かしたかのように、用済みかのように、一切連絡してこなくなったそうです。

これまで散々資金面を工面してもらったり、旅行の際に良い思いをさせてもらっていたにもかかわらず、裏切りともとれる行為。一番大変だった倒産直後には、助けるどころか心配の連絡さえなかったといいます。

私も仲良くしていた1つ上のはとこが居たのですが、一切会えなくなりました。



祖母は親戚からの扱いの差にうんざりし、自身もどん底に落ちたこともあって滅入ってしまい、真剣に離婚を考えたそう。それでも、妻として、母として、務めを果たさなければいけないという強い使命感から踏みとどまったといいます。

面倒見が良く責任感が強い祖母だからこそ、自分だけ投げ出すわけにはいかなかったのです。後にその選択はもしかしたら祖母をより深く苦しめることになったかもしれません。



心の支えだった「やまちゃん」



事故をきっかけに祖父は"頑固オヤジ"から"何も出来ない人"に変わりました。これまでも亭主関白で祖母の苦労は絶えなかったそうですが、何も出来ない人に変わってしまったら、それはそれで不満は溜まる一方です。

そんな時に祖母の心の支えとなっていたのが、祖父母の昔からの趣味仲間の一人である「やまちゃん」という男性でした。

やまちゃんと祖母は、趣味仲間の中でも特に仲が良く、趣味である麻雀はもちろん、買い物に行くのも、旅行に行くのも、いつも一緒でした。やまちゃんにも家庭がありましたが、やまちゃんの奥さんもそして祖父もそれを容認していて、祖父の事故の際もやまちゃんだけは傍にいてくれたそうです。


やまちゃんはとても優しく穏やかで面倒見がよい、祖父とは正反対の性格。天真爛漫で気の強い祖母ですから、本当はやまちゃんのような人と夫婦になった方が祖母は幸せだったのではないかと思ってしまいます。けれど、どんなに仲が良くてもその一線は絶対に越えなかった。越えてはいけないし、越えなかった。

祖母にとってやまちゃんは、心から信頼出来る友達だったのでしょう。そしてその関係は、祖母が空へ旅立つその日まで形を変えることをなく続きました。



祖母の闘病生活



祖母は遺伝で昔から腎臓が悪かったようで、祖母が70歳になる頃(今から約15年前)、ついに人工透析を行うことになりました。

人工透析とは、簡単にいうと腎臓の働きを人工的に行うものです。腎不全になってしまった人は、水分と塩分、更には老廃物を排出することが出来なくなります。祖母のように高齢者の腎不全末期だと、人工透析を行わなかった場合の余命は半年〜1年ほど。人工透析を行うことで、身体の中の老廃物の除去、水分量の維持が出来るため、余命を延ばすことが出来ます。


具体的に何をするのかというと、血液を一度体外に出し、綺麗にしてからまた体内に戻すという体外循環を一回約3時間〜6時間ほどかけて行います。ベットに横になりながらの治療ですが、エネルギー消費が激しく、血圧も下がるので終わった後はぐったりするようで、かなり負担のかかる治療法です。

更にしんどそうなのがそれを一日おきに行わなければいけないということ。透析の次の日は、老廃物や水分が排出されている状態なので比較的元気ですが、その次の日にはまた透析。祖母はこの透析生活を"終わりのない地獄のよう"だと言っていました。



そんな祖母にとって地獄のような日々を支えてくれていたのは、やはりやまちゃんでした。祖母の透析が始まったのと同時期に、やまちゃんは奥さんと死別したこともあり、暇があれば祖母のお見舞いや透析センターへの送り迎えにきてくれていたそう。

祖父が空へ旅立ってから、後を追うように年々動けなくなっていった祖母の身の回りの世話は、母とやまちゃんが代わり代わりやるような形をとっていました。

そうして娘と親友に支えられ、終わりのない長い長い地獄で生きていた祖母は14年の時を経て、ようやく終わりを迎えました。それはもう、突然に。



祖母の最期



空に旅立つ2日前、息苦しさを感じた祖母は病院に訪れ、検査のために入院することになりました。その時、私や母には「大丈夫大丈夫」と言っていた祖母は、やまちゃんだけには「もう無理かもしれない」と弱音を吐いていたそう。自分で終わりを迎えることがわかっていたのかもしれません。

後に命日となる2日後の夕方頃、母のスマホに祖母から着信がありました。母が出ると「苦しい」という祖母。ナースコールの場所がわからず、母に電話をかけたみたいで、すぐに母が病院に電話をし、祖母の様子を見てもらうよう頼みました。

するとその20分後、また祖母からの着信。「誰も来ない、苦しい」という祖母。母は怒りを抑えながらもう一度病院に電話をしたそうです。更に10分後、今度は病院から「今酸素マスクをつけて様子を見てますのでご安心ください」との電話。

母は安心し、仕事を続けたといいます。しかしそれから2時間後、再び母のスマホが鳴ります。病院からです。嫌な予感がしながらも電話に出ると「お母様の容体が急変しました」と。仕事を切り上げ、急いで病院に向かっている途中で私に電話をしてきた母の泣きじゃくった声は、今でも忘れられません。


母が病院についた頃には容体は落ち着いていて「念のため、どういった経緯で急変したのか説明するので待っていてください」と言われ、待合室で待っていたそうです。その頃に母からもう一度連絡がきて「もう大丈夫らしいから寝ていいよ」と言われました。

その約1時間後です。またもや母から泣きじゃくった声で電話がきました。内容は「ばあちゃんが死んだ」。意味がわかりませんでした。私も急いで病院に向かうと、青白く、でも何処かまだ生きているかのように眠っている祖母がいました。


二転三転が過ぎるため、病院に説明を求めると、最初は酸素マスクで対応出来たが後に容体が悪化し、心臓マッサージなどの処置を行っている途中で母が到着した。事態の重大さを把握していなかったスタッフにより、山は越えたと説明された。その説明の裏で祖母はずっと心臓マッサージをされており、約1時間後、無理だと判断されたのだといいます。

すぐそこまで来ていたのに。病院の伝達ミスがなければ、母だけでも最期に立ち会えたのに。あれだけ取り乱す母を見たのは最初で最後だと思います。

自分の人生をかけて妻として、そして母としての務めを果たしてきた人間の悲しすぎる最期に、私は言葉を失い、ただただ、呆然と祖母を見つめることしか出来ませんでした。



やまちゃんの思いと祖母の人生



残された人間に悲しんでいる時間は与えてくれません。すぐさまお葬式の段取りを組み、忙しい3日間を過ごしました。そんな中、母が「やまちゃんだけには会わせてあげなきゃ」と、やまちゃんに電話をかけました。やまちゃんは訃報をきいてすぐ祖母の元に駆けつけてくれました。

「昨日まで元気で電話してたのに・・・」と、祖母の横で小さくなるやまちゃん。やまちゃんには祖母の最期は言いませんでした。3時間ほど祖母の顔を見つめていたやまちゃんは徐に立ち上がり、私と母に一言だけ残して帰りました。

「ヒロが居たから人生楽しかった。ヒロの笑顔が僕の生きがいだった。ヒロと最後に会わせてくれてありがとう」



空へ旅立つ1年程前から入院が続き、家を空けることが多くなっていた祖母。たまに母と二人で祖母の家の様子を見に行っていましたが、いつも綺麗で当時は不思議に思っていました。

後から聞くと、やまちゃんが祖母の家の掃除やゴミ出しすらもやってくれていたそうです。やまちゃんも納得のいかないお見合い結婚をしていたみたいなので、祖母のことが好きだったのではないかと私は思っています。もしかしたら、祖母も本当はやまちゃんが好きだったのかもしれません。それでも、祖父との生涯を全うした。



私にとってヒーローだった祖父は、祖母にとってはだった。意思の疎通が難しくなった祖父に「こんなことならあの時死んでいたら・・・」と酷い言葉を投げかける祖母を一度だけ見たことがあります。

その言葉を聞いた当時は祖母に「なんでそんな酷いこと言うの!?」と怒りをぶつけましたが、大人になった今、女としての感情と、妻や母としての理想の狭間で葛藤していたのだろうと理解出来るようになりました。


事故があったのは今から約20年前。そして祖父が空に旅立ったのが約9年前。亭主関白で言うことを聞かない祖父と寄り添って約39年、そして何も出来なくなった祖父に寄り添って約11年。愛を感じることがないまま、50年間祖父と寄り添った祖母。女としての自分の幸せに逃げずに、祖父を空へ見送ったその日までであり続けた祖母。そして、自分が空へ旅立つその日までであり続けた祖母。

そんな祖母を私は心の底から尊敬しています。





愛されるべき相手に愛されず、愛されてはいけない相手に愛された女性。あなたにとって、彼女の人生は幸せでしょうか?それとも不幸せでしょうか?賛否両論ある人生だと思います。私にも祖母が幸せだったかどうかなんて、わかりません。

一つ言えることは祖母は頑張りました。とってもとっても人生を頑張りました。沢山の辛いことを乗り越えて、頑張りました。そうして頑張った祖母はきっと今、空の上で幸せに笑っていると思います。もしかしたら祖父と相変わらず喧嘩をしながら麻雀をしているかもしれません。

そんな姿を思い浮かべながら、この記事を書きました。少しでも多くの方に祖母の"頑張り"が伝わってくれると、嬉しいなと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。





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