本棚には課題、課題とは本棚。
我々、特にわたしには問題がある。
遠くない将来、我が国の対外関係にも支障を来しかねない問題である。これまでも地方からは、明日にでも無政府状態に陥る恐れがあると度々公的援助を求める声が上がっていた。他国に月々の貸借料としてたくさんのお金を払わなければいけない国土とはすでに名ばかりで、もはや形而上学的領土と呼んでしまっても構わないのかもしれない。従って地方からの要請などいちいち聞いていられない。そして八畳と風呂トイレ別そこそこ広いメゾネット付きというのがその矮小な国土の売り文句であった。
もはやそれらの名詞はその体をなすことを忘れ、大変な憤りを感じると猛り、デモ行進を始めた。私にも自分で何を言っているか分からない。それほど追い込まれているということが伝われば現時点での私の最低限の責任は果たしていると思う。何が合目的性だ、くたばれ。
その国の国民、主権者、指導者、つまりわたし。わたしは、就任数ヵ月のこの国でおよそもっとも偉い人と思われ崇め奉られて当然であるが故、数ヵ月の間、特にここ数週間はあぐらをかき、公費を無駄遣いしていたことを主権者の皆様に白状するのが筋であると考えた。
思い立ったが吉日、今日こそはと自分に言い聞かせ、空を見ればよく晴れている。そうすると「こんな快晴が吉日であっていいはずがない」「そもそも吉日とはなんだ」「計画的な決定を!」我が国の頭脳と呼ばれ長い間治世を司ってきた国会議事堂で、もはや明晰とは言い難いわけのわからないヤジがなんの恥ずかしげもなく投げ飛ばされ続けることになる。なんと情けない。議会は腐敗し、民衆はアナーキズムを信奉し、ピザポテトは美味しい。この先の見えない暗黒の時代にわたしは宣誓することにした。では概要から話そう。
いわゆる本棚と呼ばれるのが本来相応しいと思われたその土地空間において、過去に秩序と呼ばれたもの。それがおどろおどろしい色のケィオスに蝕まれていくのを、そこの主である私はただ見ているだけで恍惚に似た満足を覚えていた。知識欲と収集癖、そして誰に伝えるでもない顕示欲が視覚的に満たされていくのをニタニタと気色の悪い笑みを浮かべながら眺めていただけなのかもしれない。政府が機能していれば、ポリスが職務質問という形で理性に働きかけていてくれたのかもしれない。
わたしは本棚のキャパシティと日本大妖怪散らかし鬼が織り成す地獄の即物的メロディと、知識欲と収集癖の満足がもたらす至極の感性的ハルモニーを、愚かにもお片付け先延ばしの呼吸というてきとーリズムで総合したのである。それがそもそもの間違いであったと気付いたのは一昨日のことである。
国中の専門家にこの問題を形容しうる標語を考えさせた。議会も交えた半日に及ぶ熱論の末、提出された案の中でわたしとしても合点がいったものを一つ紹介しよう。
「本棚がやばい。」
この国は既に手遅れなのかもしれない。
知性とはなんだ。品性とはなんだ。品性と知識の美しい調和が知性ではないのか。私は何度もそのような啓示を示したが相変わらず国会では「レポートだ、音楽だ、踊らにゃ損々」等と死屍累々の様相を呈している。屍がゾンビなのだからたちが悪い。蹴り飛ばしてみれば起き上がってあっというまに数を増やし、理性を持った私はショッピングモールに駆け込むしかない。
悪辣なやつらである。この決意をどうしても本棚問題に向けさせない気か。
そう思っていたのが昨日のこと。問題はさらに悪化した。
ヴィンランドサガと鬼滅という二大激熱作品がレポート作成資料という名目で入管を抜けた。普段漫画は電子書籍派という我が国にとってそれは不測というに十分すぎる出来事だった。入国が決定した時点で既に腰の大きさほどの三つのホワイトボックスが決壊して数週間が過ぎた状態のわたしは、帰宅して非常に不味い出来事と判断した。それまで机の上や床上などと着実に陸地を狭めるのに貢献していた本の体積が目に見えて問題化した瞬間である。これは温暖化が悪い。しかし、ミーハー精神が昇華され眼前に山となって積み重ねられる漫画本の魅惑とは、一言で表すことができないのも確かである。
~古の敬虔な清貧信奉者はこのような消費活動を「罪重ね」と呼び、実際にそのような罪重ねをした者には戒めとして自らの家の柱に鉛筆等で購入物を積み重ねた高さと購入者名、日付を刻み込んだ。日本家屋などの柱に見られるあの数値と名前と日付はその名残であるという説が支配的~
参考文献「日本の清貧主義~日本的宗教の倫理と精神~」(2014)民明書房
そして新しい本棚をぽちったところで、メゾネットの主である弟にお前、この本に書いてある意味わかんのかよと次々と煽られながらホワイトボックスの解体をさせているのが現在です。この文を書いているというのはつまりわたしはレポートを書いているという体なんですよ。
弟よ。わたしは今だ勉学の道半ばであるからして、言えることがある。
知識を現実と照らし合わせて運用できていないんだから、本当の意味でわかったとはいえない、ということがなぁぁあ!!!!
本来ならば先送りするべきではない問題を先送りさせないためにあるのが理性!だというならばそれをもって道徳を実践し、道徳を証明しようと思うのが人間の理性のあるべき姿ではないのか!!
君の持ってた本にそんなことが書いてあるんだけど、まだ研究しきれてないので先生に聞くがよい。
そうそう。そういえばそのことを忘れて、驕り高ぶった末にくだらない独白文だか宣誓文を書きかけて処刑された王様の話があるよ。ここに。
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