センター試験前々夜

 前々々夜からのつづき




 翌朝目が覚めると、体の熱っぽさはすっかり収まっていた。さすがの彼も医療行為と自身の体調との間に因果関係を認めないわけにはいかなかった。その日は試験前最後の登校日で、壮行会めいた学年集会があるということだった。彼は学校に行くだけの体力が回復していないではなかったが、大事をとって休むことにした。今さら応援されるまでもなく、自分のなすべきことは決まっているのだし、自分のことをさぞかし心配しているであろう国語教師と顔を合わせるのも気まずかった。

 昨日は回復に専念するためにベッドに伏せってばかりいたが、今日は今日とてやはりベッドを温めてばかりいる彼であった。勉強したってかまわないのだが、彼はこの期に及んで新しい知識を詰め込まなければならないほど無計画でもなければ、片時も勉強から離れると正気を失うような異常者でもなかった。体に馴染んでもはや抗力を感じさせない自宅のベッドは、呉王夫差も憎悪を忘れてしまうほどの快適さであり、そうした快適さに身を委ねながら口の中で転がすミルキーは、越王勾践の怨恨も消し飛ぶほどの甘美さであった。

 ――誰に復讐するわけでもない。自分との戦いだからな――

 彼は天井を仰ぎみながら、この二日間のことや明後日の試験のことに思いを馳せていた。ときどき携帯電話をチェックしてみるが、彼の連続の欠席を心配するようなメールは受信されていなかった。みんな自分のことで忙しいのだろうと、彼はかえって安心した。自分だけが貧血になったり高熱になったりして、精神の平静を欠いており、級友たちは他人の心配をするだけの寛容と余裕を持ち合わせているのだとしたら、それは彼にとっては決まりが悪いことだったに違いない。彼は次第にまどろみ、夢に落ちた。



 この世に存在するありとあらゆる試験監督を大きな鍋でドロドロに煮込んでそのまま型に流しこんだのだろうと一目で分かるほど、その男はありふれた試験監督の風貌をしていた。男が彼に牙をむいたのは、最初に受験票を確認するときである。男は、彼がかけている金色の眼鏡が、受験票に写る青色のそれとは別物であることをねちっこく糾弾した。受験票の写真は数ヶ月前に撮ったもので、確かに彼はその後眼鏡を買い換えてはいた。しかし、眼鏡が本体であるのは漫画の中の登場人物だけのことだと思って、彼はそんなこと微塵も気ににかけていなかったのである。ところが、試験監督の男は眼鏡の違いを理由してことあるごとに彼に難癖をつけるのであった。不正行為を疑われるような行為をしたならまだしも、ただ眼鏡の色が写真と異なるというだけで、まるで替え玉受験でも企んでいるかのように扱われるのは、彼のプライドではなくアイデンティティを著しく毀損した。

――考えてみれば、眼鏡は三六五日欠かすことなく装着し続けるものであるから、日々抜けては生え変わる毛髪よりは自分の身体と同定しているといえるのやもしれぬ。否、毛髪に限らずありとある身体の細胞は毎日分裂と死滅を繰り返しており、数ヶ月と経たぬうちに全て入れ替わってしまうと耳にしたこともある……ならば有機的な細胞よりも無機的な眼鏡の方がよほど過去の自分と連続しているということになる……とすれば、眼鏡を買い換えた瞬間に自分の身体はもはや別様の物に変身化体したと言えるのではないか……では、替え玉受験とのそしりを免れないのではないか、不当な言いがかりであると喝破するわけにもいかぬのではないか……しかし、試験というものは受験者の知識や知性を確認するもので身体の同定は本質的ではないはず……否、あるいはそういう考え自体がデカルト的二元論に毒されているのであろうか……身体と精神が相補的なものであるとする現代的な価値観に従えば、眼鏡が本体というのも強ち妄言とは言い切れないのか……俺が眼鏡で、眼鏡が俺で……――


 うなされている自分に気が付き覚醒すると、背中が汗でぐっしょりと濡れていた。彼はしばらく呆然とした後、首を捻って今見た夢の光景を反芻した。そして、大きく嘆息した後、青色の眼鏡を鞄の底に突っ込むことにした。



前夜につづく


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