センター試験前々々々夜
ようやく回復しつつある視界に目をくらませながら、彼はゆっくり空気を吸い込む。武骨なむき出しの石の階段の冷たさが、こんな時に限ってはかえって好ましく感じられた。
貧血なんて、いつ以来だろう?
ほぼすべての三年生がセンター試験を受ける彼の学校では、年明けから毎日センター試験本番を模した演習授業が行われていた。今日はその最後の授業日だった。三カ日が終わってからというもの、彼はかつてない焦燥を肌に感じていた。勉強時間の不足をこの段になって痛感したとか、志望校を決定することができていないとか、そういった類のものではない。彼は生まれついての優等生であったから、そんな典型としての受験生の悩みなどというものは無縁であった。典型はあくまで典型であってイデアではない。その証左が自身の存在であると信じて疑わなかった。だから、当時彼をまつろっていたのは、そんな時制軸を前後に拡張しなければとらえられないような不安ではなく、もっと単純な、現在形にのみかかわる不安であった。
国語の点数が取れない。
たったそれだけのことである。直近の数回の問題演習で、納得のいく点数がまるで取れていない。国語は苦手科目ではなかった。いや、少なくとも彼の中では、国語こそ最も得意とする科目であるはずであった。それなのに、国語の点数だけが異常なまでに低い。いつもそれなりの自信をもって解答を終えているはずなのに、採点してみると想定の半分くらいしか得点できていないのだった。思うように点を取れず苛立ちと恐怖を覚える傍らで、これまで彼が歯牙にもかけなかった級友がずっと良い点数を取るのである。このままではいけない。何とかしなければ、と思うものの、毎回真面目に解いているのである。これまでと解法を変えたつもりもないし、油断をしているわけでもない。この上なくまっとうに問題には取り組んでているのである。
それでもそんな彼の真摯さをあざ笑うかのように、自己採点欄にはバツ印が並ぶのであった。
そして今日、解き終わった五十点満点の大問一を採点し、二十一点という数字を見るや否や、目の前が真っ暗になった。慣用表現ではない。文字通り、視界がブラックアウトした。同時に猛烈な頭痛と吐き気が襲ってきた。全身から血の気が引いていくのが分かる。寒い。気持ち悪い。頭が回る。寒い。気持ち悪い。寒い。
雪のように冷たい体をやっとのことで持ち上がらせると、体調が悪いだとか気分がおかしいだとか、よく覚えていないがともかくそういった趣旨のことを先生に告げ、よろよろと彼は教室から転げ出た。教室が少しざわついた物音を聞いたような覚えはしたが、級友の視線を感じられるほどの余裕は残っていなかった。そして廊下から階段を数段下りたところでへたりこんでしまったのだった。
――点数の悪さにショックを受けて貧血だなんて、メンタルが弱いにもほどがある――
数分間石の階段にうずくまって、ようやく平静さを取り戻してきた彼は失笑した。しかし、それは自嘲というよりは安堵に近いものだった。大量に放出した冷や汗とともに、ずっと感じていた不安も散っていったように感じられた。
――こうなったのが今日で良かった――
体の血の気はもう十分に戻っていたが、若干の気まずさを覚えてすぐに教室に戻るのはよしにした。ぐるりと学校中を回って、自動販売機で紙パックのミルクティーなんぞを買おうとしたのだが、当然ながら財布は教室に置いているのだった。彼はなんだか馬鹿馬鹿しくなって、ふふっと笑った。そして、授業の終わるチャイムを聞いてから何食わぬ顔で教室に戻ることにした。
その晩、彼は三十九度の高熱を出した。
誰かのセンター試験直前の様子。
前々々夜につづく