帰省:丸山眞男

 今日久しぶりに高2の現代文の教科書(現行の科目名は「論理国語」というがそんなことは知らない世代の方が多かろうから馴染のある科目名を用いる)に目を通す機会があって、丸山眞男の「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』より)と題された評論を読んだ。

 1961年に著された文章が、2000年代前半の俺の青春時代はおろか、2025年現在においても教科書に採用されているという事実には畏怖の念すら覚えるものだが、明晰な論理と平易な語句で語られるその内容は、当時から元号が二度も代わった現代社会でも全く色褪せず通用するもので、さすがは丸山眞男の慧眼であると感服するとともに、日本社会の悪しき普遍性を看破されているようでもいて眉を曇らせてしまうところもある。

 『ミロのヴィーナス』、『山月記』、『六月の蝿取り紙』、『広告の形而上学』、『少年の日の思い出』、そして、『ねがいごと』。俺の人格形成に大きく影を落としている教科書の文章は色々あるが、この丸山の評論については、タイトルこそ大きく印象に残っていたものの、内容についてはそれほど深く覚えてはいなかった。だから、初めて読むような気持ちで読み始めたのだけれど、特定の文字列に遭遇するたびに、ああ、この一節覚えているなあ、これってこの評論のものだったのか、と本当に初めて読んだときの感覚と感動が蘇ってきた。俺の脳みそがそのことを忘れているだけで、俺の身体には文章と思想がきちんと保存されていて、読み直すという行為によって解凍されていく。そういう不思議な心持ちだった。

 

自由は、置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、言い換えれば日々自由になろうとすることによって、初めて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりも、それに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、甚だもって荷やっかいなしろ物だといえましょう。

「アームチェア」!「荷やっかい」!覚えてる、覚えてるぞ。

「プディングの味は食べてみなければわからない」という有名な言葉がありますが、プディングの中に、いわばその「属性」として味が内在していると考えるか、それとも食べるという現実の行為を通じて、美味かどうかがそのつど検証されると考えるかは、およそ社会組織や人間関係や制度の価値を判定する際の二つの極を形成する考え方だと思います。

こっちのプディングは丸山眞男だったのか!こっちも岩井克人だと思ってたぜ……

アンドレ・シーグフリードが『現代』という書物の中で、こういう意味のことをいっております。

アンドレ・シーグフリード!!!!!!
こんなにかっこいい名前なのに大学時代にまるで触れなかったから今の今まで忘れてたやん!

彼はちょうど「である」と「する」という言葉を使って、教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいていることを強調しています。ですから彼によれば芸術や教養は「果実よりは花」なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値があるというわけです。こうした文化での価値規準を大衆の思考や多数決で決められないのはそのためです。「古典」というものがなぜ学問や芸術の世界で意味をもっているかということがまさにこの問題に関わってきます。

ここの「古典」の意味がしっくり来てなかったんだよなあ、当時は。
それを思うといくらかは俺も成長しているんだな。

もし私の申しました趣旨が政治的な事柄から文化の問題に移行すると、にわかに「保守的」になったのを怪しむ方があるとするならば、私は誤解を恐れずに次のように答えるほかはありません。現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカルな精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと。

ラディカルな精神的貴族主義!!!!!!!

 あまりにも自分の中に残っているどころか、俺の中核を形成しているような思想であったため、さては俺こそが丸山眞男であったかと不遜な思い込みまでしてしまいそうである。これほどまでに自身の深部に刻まれている文章の出典を忘れてしまっていることは非常に情けない話であるが、また同時に大いなる希望であるような気もした。俺が青春時代に読んだ文章が、無自覚ながら現在の俺の人格・思想を構成するものとなっているのであれば、俺が若人らに読ませたり解かせたりしている種々の文章も、同じ運命をたどる可能性があるということではないか。




 そして何より嬉しかったのは、これだけ思い出せる一節がたくさんあった一方で、全く読んだ記憶のない文字列だって、この評論の中にはまだ埋もれていたということである。そしてその言葉たちは、今の俺の頭の中のもやのようなものを爽快に吹き飛ばしてくれるのだ。


自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味したりすることを怠りがちになるために、実は自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でないことがまれではないのです。逆に、自分が「とらわれている」ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、なんとかして、より自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に自由になりうるチャンスに恵まれていることになります。


 京都大学の学風は「自由学風」である。にもかかわらず、格助詞が有する日本語の神秘に全く無頓着な世の中の圧倒的大多数の愚か者どもは、この学風を「自由学風」と喧伝する。嘆かわしいことに現役の京大生やOB・OGどもまで、この違いを意識できない輩が少なくない。

 しかるに「自由な学風」と「自由の学風」の微妙にして絶妙な違いを、この一文字の違いだけでその機微を感ずることのできない(正確には感じようとする意志すらもたない)言語的不感症の連中にどう説明すればよいかと思案していたところ、先に挙げた丸山の引用でいうところの前者の自由人は「自由な学風」にぬかるんでいる連中で、後者の自由人こそが「自由の学風」を座右に置く者ということができるだろう。

 京大の学風の意味を、東大法学思想の権化というべき丸山眞男の文章から読み解くのはまこと滑稽な営みともいえるが、それを許容するのもまた文系の学問が有する広大な自由の一端であろう。「自由の学風」を後の世代に継ぐべき者として、ときには丸山眞男に帰ることも必要であるらしい。帰省先がどんどん増えてしまうのはなかなかに面倒なことでもあるが、学問の子としての大いなる誇りでもある。


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