
丸木位里・俊「原爆の図」
昨年、地道な活動を続けることで被爆の実相を世界に広げるとともに核兵器の非人道性を明らかにしてきた日本被団協がノーベル平和賞を受賞した。それを契機に、核をめぐる様々な問題が再び議論の俎上にのぼっている。
もちろん原点となったのは1945年8月6日、アメリカが広島に投下した原爆である。3日後には長崎に落とされた。
そして1954年にはビキニ環礁で操業していた第五福竜丸が、アメリカによる水爆実験で降ってきた「死の灰」を浴びて被爆した。
被団協はまさにその後に日本全国で沸き起こった反核の声の高まりのなかで生まれたのだった。
原爆投下後、現地入りした丸木位里・俊
画家の丸木位里・俊は、広島への原爆投下によって、おじを失い、めいも二人死に、妹は火傷をし、父親も半年後に亡くなった。
位里は原爆投下から3日目に東京からの初めての汽車で、俊も続けて広島に入った。爆心から2キロちょっとの所に、二人の家が焼け残っていた。
だが、屋根も瓦も窓も台所道具もみんな爆風で飛ばされてしまっていた。
それでも家は焼け残っていたので、大勢の人たちがたどりついて家の中にいっぱい倒れていた。
二人はけが人を運んだり、死んだ人を焼いたり、食べ物を探したり、灼けたトタンを拾って屋根に乗せたり、屍の臭いとはえとうじの中を原爆にあった人と同じようにさまよい歩いた。
二人が「原爆の図」を描き始めるのは3年も経ってからのことだった。そして制作はおよそ30年にも及ぶことになる。
「原爆の図」15部のうち14作を所蔵している「丸木美術館」(埼玉県東松山市下唐戸1401)を2025年1月9日(木)、訪ねた。

順路に従って「原爆の図」が展示されている2階から見ていった。
まず現れるのは第1部「幽霊」(Ghost)だ。

第2部は「火」(Fire)。

そして第3部「水」(Water)。


第4部「虹」(Rainbow)。
上空高く舞い上げられた煙とほこりが雲をよび、やがて大粒の雨となって晴天のままでいるなか降り注いだ。その暗黒の空に虹が出た。

第5部「少年少女」(Boys and Girls)。


第6部「原子野」(Atomic Desert)


第7部「竹やぶ」(Bamboo Thichet)
広島の郊外には竹藪が多かった。家を失った人たちは竹藪に逃れた。


第8部「救出」(Rescue)


第9部「焼津」(Yaizu)
焼津港から漁に出ていた第五福竜丸は、1954年、ビキニ環礁で「死の灰」を浴びた。人類初の水爆実験をアメリカが行ったことによる被ばくだった。久保山愛吉さんは半年後に亡くなる。日本人のみならず現地のミクロネシア人たちも放射能の影響を免れなかった。
第十部「署名」(Petition)
原爆やめよ、水爆やめよ
第十一部「母子像」(Mother and Child)
母親が子どもをしっかり抱いている。母は死んでいるのに子どもは生きているというそんな姿をたくさん見たという。
第十二部「とうろう流し」(Floating Lantans)
8月6日、今も広島の7つの川はとうろうで溢れる。それらの川はあの時、屍で満たされ流れていた川だ。
第十三部「米兵捕虜の死」(Death of American Prisoners fo war)
アメリカが落とした原爆で日本人は30数万死んだ。同時にアメリカの人たちも23人死んだ。
第十四部「からす」(Crows)
屍になっても差別を受けた韓国人・朝鮮人。屍にまで差別をした日本人。ともに原爆をうけたアジア人。広島や長崎で被ばくした人は韓国だけでも1万5000人近くいて原爆手帖すらなく暮らしている。
丸木美術館は改修のため、今年秋から休館し、2027年5月5日に再オープンする予定となっている。
その間ー2025年11月から2027年3月まで豪クイーンズランド州の美術館に貸し出されて展示される。


丸木美術館は、広島の川に似ている都幾川がすぐ近くに流れているという理由でこの場所に設けられた。



