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繋がる 気づく 慈しむ

日々感じていることや気づいたことを、アウトプットしていく自己満足なnoteになると思いますが宜しくお願い致します。

わたしは7年程マイペースにヨーガを続けてきました。
インストラクターになるでもなく、ただただ自分自身の為で、今までの自分の中にはなかった世界観や考え方に触れたり、こころを観察していくことで、「自分が決めつけていた自分」という虚像がゆっくりとほどけて、本来のわたしがじわじわ顔を出してくる感覚が面白いなぁと感じています。
“わたし”って存在するのか?という問は、ひとまずおいておいて。


人前に出て自分を表現することは苦手なので、こらちらでアウトプットを始めてみることにします。

ヨーガを続ける中で、学んだこと、気づいたこと、そこから派生して興味を持ったことなどを“わたしの色眼鏡”を通して綴りたいと思います。



ヨーガといっても様々な流派や哲学が溢れ、始める動機も様々だと思います。何が良くて、何が正しいかなんていうことは関係なく、最初はどんな風に始めたとしても、続けていくうちにどんどんいろんな展開がやってくる。



わたしは心が強くなく、ビビリだし、変化も苦手…そして自己表現する事が苦手で、今の社会で生きることがなんとなく息苦しく、自分を解放する為の術を小さい頃からずっと探していたのかもしれない。


ヨーガを続けていく中で、わたしの求めていたものが、このヨーガという大いなる叡智にあるのではないかという想いがどんどん増していきました。

はじめてから暫くはヨーガの良さなんて全然分からなかったのだけれど、先生が素敵だし、少し続けてみようかな〜という感じで今に至ります。
ごくごく自然に、ニュートラルな気持ちで続けられているのも不思議で、週に一度のヨーガのクラスが自分と向き合えるとても大切な時間になっています。


今は、どちらかと言えば、身体を動かすアーサナよりも、精神的な探求が好きで、ヨーガ哲学や仏教哲学、タントラ(密教)に興味を持っています。
もちろん、アーサナも動く瞑想として自分を観察できるので大切だと思っています。


本当の自分との繋がり、自分の外側の世界や人との繋がり、自分の内側の気づき、そして、どんな自分もジャッジしないで慈しむことを心にとめる。
自分への慈しみが溢れると、自動的に自分の外側へと慈しみが溢れていく。
だからまずは、自分に優しくすること、理解しようとすること、慈しむことから。
そんな事を大切にしたいと思い、最初のタイトルにしました。


わたしの信頼する先生方は、本当にやさしく、慈悲のこころを持つ方々ばかり。
真の優しさを持つ人は、真の強さを持っている。
慈悲に裏付けられた堅固な強さと、あらゆる世界観や概念に囚われないで、自由自在に世界を生きるしなやかさをもち、そして、全てを肯定し、受け入れようとする心や、どんなことでも包み込んでしまう空(くう)のような包容力を持っているなぁと感じています。



そんな先生方から少しずつマイペースに学ばせてもらい、いろんな世界観や哲学に触れながらも、それらを鵜呑みにせず、偏らず、ニュートラルに起こることを観じていきたい。
まだまだニュートラルに観ることは難しいけれど、この感覚を知っていると、起こる出来事に振り回されることも少なくなっていき、何があっても大丈夫なんだなぁ〜の境地へ還ることができる。
そんな境地へ繋がる練習だと思ってヨーガをしていきたい。

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ヨーガや仏教哲学との出逢いは、わたしを本来の自己(本当のわたしと繋がること)への探求へと導いてくれました。
本当のわたしと繋がる方法は、人それぞれ。
人の数だけ方法があってもいい。
たまたま、わたしにとってはヨーガや仏教の世界であっただけで、あなたにはあなたにぴったりの方法がきっとあるのだと思います。


今、わたしやあなたと同化している、固定概念や無意識に植え付けられてきた常識や思い込みを外して、平らかな眼で起こることを見て、真に自由な存在として、創造的に今生を楽しめたらなぁと思っています。



本当は、わたしもあなたも誰の制限も何の制限も受けない、自由な存在。
特定の世界観や概念の縛りを受けず、分別を超えた平かないのち。
それを理解し感じながら、自分の好きな世界を構築していければいいのかなぁと思っています。



まずは、わたしたちは本当は自由な存在であることに気づいてあげること、なのかなぁ。
自分を縛っている概念や、苦しめているものの見方(小さな頃に両親や、先生、周囲の大人たちに無意識に植え付けられたもの、社会システムや常識)などに気づいてあげませんか?



あなたの今持っている概念や世界観が全てではないと思います。
苦しい時は、きっと自分の狭い世界の中でしか物事を見れていないとき。
けれども、その苦しさや辛さ、不安や恐怖なども本当のあなたへと導いてくれる有り難いものだったりもする。
新たな概念へ移行する時は、それまでの自分の観方が破壊されたり、変化せざるを得ないことによる痛みや辛さ(=成長)が必要なこともある。


その時(そのステージ)の自分にはまだ見えていないけれど、その見えていないところにとってもやわらかな世界もあったりします。
狭い世界を出て(壊して)、いつだってそのやわらかな世界(新しい世界)を選ぶこともできます。
「わたしの操縦士はわたし」で、他の誰かではありません。
いつも本当の自分を感じてあげることで、わたしがわたしを導いてくれるのだと感じます。



わたしは何に囚われたり、どんな考え方に縛られたりしているのだろう?
誰か自分以外の人に植え付けられた概念に苦しめられていないだろうか?
社会の常識や誰がつくったか分からない流れに流されて自分の感覚を無視していないだろうか?
そんなふうに少しづつ寄り添ってあげると、自分(の思考や考え方の癖、セルフイメージなど)が自分を縛っていたんだなぁ、自作自演だったのかもなぁと気がつくことがあるかもしれません。


わたしは今、そんな感じで少しずつ自分をほどいている真っ最中。自分への縛りが和らいでくると、何故か人に対しても少しずつですが、やわらかな目線をもつことができるなぁと感じています。


この身体で過ごせるのは今生だけ。
そして、いつ、この身体を離れるかは誰にも分からない。
その儚い時間の中で、どんなことと、どんなものと、どんな人と、どんな世界観とわたしは縁を結びたいのか。(半分は見えざる導きによって結ばされているのかもしれないけれど。)
そんなことを考えるようにもなっていた。



精神世界やヨーガや仏教、哲学の世界では、この世は幻想だと説かれる。(映画のマトリックスがよく参考に使われたりするが)
幻想であることに気づいたならば、自分はどうしたいだろうか。
わたしは、幻想に囚われず、他に軸を渡すことなく、自らを拠り所にできる柔らかだけれど強いうつわを創造できたらいいなぁと想います。
すべてを肯定できる、空っぽだけれど、可能性で満ちているうつわを。



人それぞれ選ぶ世界観も観ている世界も体験したいことも違う世界の中で、その違いを楽しむこともしたいし、似た感覚をもった人と、より深く微細な領域で繋がってみたいとも思う。
またまた、今はまだ観えていない新たな世界もたくさんあると思うので、その時々のわたしの感覚を大事にしていきたい。



常にうつろい、揺らぎながら循環している世界で、ほんの一瞬でも出逢うことができた“いのち”との、
あたたかでやさしく、うつくしい繋がりを感じられたら嬉しいなぁと思う。



ここまで読んで下さったやさしいあなた、ありがとうございました。
あなたにも、いつもあたたかでやさしく、うつくしい瞬間がおとずれますように!

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