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朗読LIVE 139 余と万年筆(前半)
17世紀からインキを蓄えられるペンはいくつかの方式が発売されていたらしい。1884年にWater manが実用的な万年筆の仕組みを考案し、これが日本に入ったのが1895年、明治末期に普及した。1909年ごろには軸もペン先も国産されるようになる。昭和に入ると国内メーカーの商品が輸出され、1940年には世界の生産量の半分を占めるまでに成長した。その後他の筆記具に押されて減少している。
以上、ちょいちょいとググって出てきた万年筆豆知識。
このエッセイは、明治45年6月30日に世に出された。1912年である。つまり、万年筆が入ってきてから、27年くらい(類似品はその前からあったようだが、Watermanを基準にして)、普及していく真っ最中、国産品も出始めた頃ということになる。
野村ホールディングス・日本経済新聞社が運営している経済について学ぼうというページから借用すると、明治30年あたりの物価について、今の物価は当時の3800倍ぐらいとある。しかし、庶民の肌感覚でいくと…
当時は、日本経済が発展しはじめたばかりで、物価に比べて賃金の水準は低く、いまよりも、職業によっての所得格差も大きかったようです。お給料が安ければ、それだけ1円の重みも違います。明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらいだったようです。
このことから考えると、庶民にとって当時の1円は、現在の2万円ぐらいの重みがあったのかもしれません。
ということは、作中の、
ペン一本一銭🟰200円
水筆一本三銭🟰600円
普及品の万年筆十円くらい🟰20万円
最上等の万年筆三百円🟰ぜろがおおすぎてわかんない…
ちなみに、木村屋総本店のあんぱんは一個一銭で200円。
いやいや、普及品で20万円?!
今の感覚でいくと、パソコン買っちゃう感じ…? 確かにそれだと購買力がついてきたのか、必需品と認められたか、という考察はわかる気がする。
実際のところは、丸善におけるWatermanは五円からの品揃えで、大正に入る頃には二円八十銭という廉価版をWatermanとの特約で出している。また、五円以下のものは使用に耐えない(国産のものを指している?)などという購買時の注意もあったようだから、つまりは、市中にはもっと安物も出回っていたということだろう。
ちょうど日清戦争後あたりには西洋紙が普及したとか、明治後半、政府がインクの使用を解禁したとか、様々な背景が絡んでいるらしい。書くことの文明開花、その象徴としての万年筆であったようだ。もちろん、文字が書けることが大前提であるから、全国民挙げてのことではないだろうが。
『學燈』誌における広告もそういった筆記環境の文明開化,西欧化を伴走するようなスタイルで貫 かれ,万年筆を用いてインクで筆記することがそのまま新しい時代をひらいていくといった主張が
行われていった。「太陽は輝けりオノトを持つ人の頭の上に」というのはこの頃の宣伝文であるが, ここからは,イギリスからの輸入万年筆を所持し,日常的な筆記に用いることは,書くことの文明 開化であるという姿勢を読み取ることができよう。
前回との絡みで言うと、当時、内田魯庵氏は丸善にいた。万年筆の普及に尽力していたということで、宣伝用カタログ作成にあたり、売れっ子作家に一筆頼んだ、ということらしい。『万年筆の印象 と図解カタログ』という丸善の宣伝用カタログに寄稿されたものだそうだ。大して使ってないのに困るよ、と言いながらもさらっと書けてしまうんだなぁ。前半は万年筆の現状について述べる、てな感じで難しく言っているけれども、後半は漱石節全開。
余と万年筆(前半) 夏目漱石
朗読は、50秒過ぎからです。
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