物を置いておく価値
本とかCDの話。
液晶に点滅する文字が当然になり、CDショップでは頻繁にセールが開かれる。音楽作品にはライブのチケット、握手券、限定品、追加の価値を付けて売上を伸ばそうと試みがなされている。
CDジャケット自体に価値は見出せるわけだが、音源と円盤が切り離されて希少性が平された分、価値が下がったと感じるのは当然だと思う。
しかし、そういった作品にはそもそも「形ある物」として充分価値があると思う。
音楽でも本でも、近くに置いておけば目にする機会が増える。この「目にする」というのが肝で、作品に触れて影響された自分の感性や憧憬は、そのタイトルや類想されるものに触れる度になんとなく再起するように思う。
つまり、その作品に映った価値観が、当時より小さくても、その度に確かに感じられるのである。それを読んときに考えていたことや、結びついた様々な記憶と感情が、縹渺とした景色として目に映る。
それを繰り返すと、そのときの脳回路がどんどん強化されていく。好きな価値観が増幅されていく。「感情」は脳の強化学習のために残ったものなんじゃないかと最近思う。
あるいは、興味があってまだ触れていない作品なんかを置いておけば、自ずとそれに向かえたりする。言ってしまえば洗脳のようなもので、本の沢山ある家で育った子どもはよく本を読むようになるし、工藤邸宅の書斎を見て育った新一は、推理への好奇心が尽きないようになる。(少なからず影響はあると思う。)これも「物としての価値」、未来に向いた方の価値。
記号的な価値より、自分の指標で触れて価値があるもの。今の自分を大きく動かしてくれているもの、そういう物だけ側に置いてみる。
ときどき聴き返したり、久々に開いてみたり。
一人のアーティストのCDを全部揃えたり、本のシリーズ全部を揃える必要もない。残りは大抵ストリーミングで聴けるし、本は図書館で借りれる。
一つあるだけで、それから連想する記憶。
そのとき次第では、思いもよらなかったことが蘇ってきたり、、引き出しは取っ手があると開けやすい。
「忘れても覚えている」のが人の良いところで、何回も触れていると忘れにくくなるのも良いところ。自然淘汰と同じくらい、忘却の仕組みは何か、本質的な匂いがする。
読んでみたいものがあったら古本でもいいから買ってみて、読んでまた売ったり。
時々、これだ!っていうものに出会えたら、しばらく持っておく。
そして、ポーカーみたいに入れ替えていく。
今はこれとこれ、数ヶ月後はこれとこれ、毎日変わっていってもいい。
水底で生まれた気泡が、細かく揺れながら上昇する。自分の価値観とかアイデンティティってのは流動的に変わってく。
物を買って並べるって聞くと抵抗がある人もいると思うけれど、「モノ消費」か「コト消費」かは、自分がどういう意識で使うかで決まる気がする。
拙くても、何かしら自分で創作しようとしてみると、並べたもの自体じゃなくてそれを「見る」自分が大事なのだと気づく。生けた花というより、花を生ける自分の見え方こそが美しいものを生み出す。
色んなインクが混ざった「自分」は今どんな色をしているのか、受け取って流して、色を加えて、下から浮かんできて、水が湧いて穴が空いて、好きな色に出会って、多分真っ黒にはならずに混ざり切れずに、マーブルな水面が揺れ動いて光を反射している。
2022/10/27