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人のことを悪く言うときは、「自分に自信がないとき」だと気づいた。

みなさん他人に愚痴とか悪口ってどれくらい言ってしまいますか?

本当に恥ずかしながらなんですが、私は気の知れた人には結構言ってしまいます。よく言ってしまうのは、自分のチーム内の50代の先輩の話。その先輩の融通が効かないところとか協調性がないところが本当に嫌いで笑。「なんでこんなふうにするんだろう?」「どうしてこうしないんだろう?」と感じてしまうことが多いんですよね。理解ができないんですよね。(あっちも私のことをそう思ってると思う)
大なり小なりみなさんにも同じように感じた経験があるのではないかなと思うのですが、私の場合これを本人のいないところで自分が気持ち良くなるために人に話してしまっている時点で愚痴や悪口ですよね。自分でそう認識しています。

昨日もこのおじさん絡みで嫌なことがあったので、さっきベッドから出て「今日noteにこのおじさんの話を書こう!世にこやつの存在を知ってもらおう!」と考えていたのですが、ふと我に帰りました。1日のはじまりにこんなイライラする話を書いてどうするん自分?と。天気もいいし今日の仕事はいいこともあるはずなのに、朝にこやつのことを考える時間そのものがそもそも勿体なさすぎる。朝からポジティブなことを考えると体にいいとかネガティブだとなんとかとか、きっと心理学とかナントカ学でも同じことが言われているはず。

きづくのおそ。きっとそんな瞬間これまでもあったはず。同期との飲みでも、先輩の愚痴大会よりもっと楽しい話や建設的な話ができたのではないだろうか。今更思い始めた。
今朝は理屈でそう思い踏みとどまることができたけれども、「じゃあなんで同期に愚痴ってしまうんだろう?」「今朝なんでnoteに書こうとしたんだろう?」と考えました。

それがタイトルにもある通り、「自分に自信がないから」だと思ったのです。
正確に言うと他にもいろいろ要因や考えたことはありますが、結論はこれ。
結局、私は同期やnoteの住人の方達に「そんなおじさん気にしなくていいよ!マエがあってるよ!」と言って欲しかっただけなのかな〜と。
もしそんないわゆる”かまってちゃん”だったら恥ずかしすぎるので思わず否定したいですが、正直に心と向き合うとその通りな気がしてきます。
意外とちゃんと向き合って時間を取って考えれば心の機微はわかるものなのかもですね。

改めてそう思うと「…これは私の問題だ。」と感じています。
仮に社内のおじさんが自分には理解できない行動・思考をとっていたとしても、自分は自分だと自信を持って気にせず進めばよかったのかもしれない。もしくは「どうしてそう考えるんですか?」「そういう考えもあるかもしれませんが、私は違う方法でやりたいと思っています。」と言えばよかったのかもしれない。もちろん世渡りは大事なので言えばいいってものじゃないけれど、わからなかったら正直に聞けばいいだけだし、自分はこう考えているという主張をすればいいだけだ。わからないときは聞いているつもりだけどそれは”つもり”になっていたのかも、自分に1mmでも無駄なプライドがなかったと言えるだろうか。
それが言えずに、聞けずに、裏で愚痴っているのは自分に自信がない証拠としか言えないのかもしれません。これほどダサいことってないかもしれない。
そんなふうに考えてしまった朝でした。

しいて外部環境の問題をあげるとすれば、おじさんは何を言っても否定されず私に発言権のない社内MTの仕組みや文化が悪いのでしょうね。


今日はこんな風に考えましたが、きっと今日から愚痴がすべてなくなることはないでしょう。自分でもなんやねんおまえって感じですが、頭ではわかってるけど、じゃあそれに全て従うかというとそうではないのが人間。
もうどうしようもないって瞬間はこの2年でも何度かあったし、自分の本能的な防衛本能でそうするところもあるはずだし、愚痴は愚痴で盛り上がるし。
ただ、そうやって「愚痴を言う自分」をメタ的に認識しておくのは大事なことかと思いました。愚痴を言う自分は自信がないとき。そのときは一時的に気持ち良くても、きっと自分なら後から振り返って「あ〜さっきの自分ダサかったな…」と思ってしまうはず。時と場合によっては、言ってしまう時もあるはずだけど時間を取りすぎないようにしよう、もっといい時間の使い方があるはず。そしてそれをあとから自分で振り返ろう。



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