川口 真理子「包みこむ言葉」
1.開運筆文字アーティスト☆言葉屋まりぃ☆
世のなかには、「路上詩人」と呼ばれる人たちがいる。
街なかで自作の詩を販売したり、相手の顔を見てオリジナルの詩をつくったりする光景を目にしたことがある人も多いだろう。
千葉県松戸市で暮らす川口真理子さんは、2013年1月にひとりの路上詩人と出逢ったことで、自らも筆を執り制作を始めるようになった。
現在は、「開運筆文字アーティスト☆言葉屋まりぃ☆」の肩書きで創作を続ける彼女は、なぜ現在の道に至ったのだろうか――――。
2.ボールを追い続けた日々
川口さんは、1985年に2人姉妹の次女として生まれた。
小さい頃から活発でダンスを踊ったりすることが好きだったようだ。
小学校2年生からは、「ママさんバレー」をしていた母親やバレーボールのクラブチームに所属していた4歳上の姉の影響で、川口さんも姉と同じクラブチームへ入部した。
地元の中学校へ進学してもバレーは続けた。
学校のバレー部では副部長を務めていたが、部長が退部してしまったため、中学3年生からは川口さんが部長を任されることになった。
「顧問の先生があまりバレーに詳しくなかったので、『自分がなんとかしなきゃ』と必死でした。チームの皆のことを考えて、厳しく指導していたんですが、周りからは怖い印象を持たれていたようです」
高校は、千葉県柏市にある県立高校へと進んだ。
中学時代とは一変して、バレー部の顧問がとても厳しかったため、川口さんが1年生のときに2年生全員が辞めてしまったようだ。
「3年生も引退したあとだったから、バレー部に私たち1年生が7人だけになってしまったんです。いつも誰か怪我しているような状態で、試合には全員が出場しなきゃいけなかったから、みんな追い込まれていました。私は先生に怒られたりすると、それを引きずってしまう性格だったので、先生からも目を付けられていましたね。でも、一緒にやっているメンバーを裏切ることはできないから、辞めることもできなかったんです。バレーボールを通じて成長することが実感としてあったから、バレーを辞めるわけにもいきませんでしたし」
結局、その顧問の先生は1年で異動となり、バレー部には平穏な時間が訪れたようだ。
そして、高校を卒業後は、都内にある私立大学へと進学した。
大学では、バレーの部活ではなくサークルへ入部。
男女が一緒に練習し合ったり、試合でもお互いに支え合ったりして切磋琢磨することができた。
「自分のことだけじゃなくて相手のことも思いやることができた良いサークルでした」と当時を振り返る。
3.仕事と大震災のあいだで
大学4年生のときには、「研究職よりも人と接したり身体を動かしたりする仕事に携わりたい」と飲食業界に的を絞って就職活動を始め、7社ほどから内定をもらうことができた。
そのなかから、大手居酒屋チェーン店を選択し、2008年からは秋葉原の店舗で働き始めた。
その後は、関東一円の店舗の立ち上げなどにも携わり異動を繰り返すなかで、2010年11月には副店長として新宿の店舗へ配属となった。
「12月に新規オープンする190席の大型店舗を任されてしまったんです。『スタッフは全員新人でまわすから』と言われて、12月は2日しか休みがない状態で、休みが欲しい旨を訴えても『あなたは副店長だから、後輩を先に休ませて、あなたは仕事を続けて下さい』と言われたんです」
そして年明けの2011年3月11日に発生した東日本大震災は、川口さんの心にも大きなダメージを与えた。
岩手県の三陸海岸沿いで釣具店を営んでいた祖父が被災。
祖父は、何とか山側のある自宅に逃げたことで一命を取り留め、喘息持ちだったこともあり、青森に住んでいた伯父の迎えで、祖父は病院へ入院することになった。
ところが退院日前日になって誤嚥性肺炎で他界。
震災から1ヶ月後の訃報は、川口さんにとってもショックが大きかったようだ。
過労と祖父の死が重なり、22時に布団に入るものの、朝5時が来ても眠ることができない。
眠れない日々が続き、マンションの11階から飛び降りそうになったこともある。
通院したところ、「鬱」との診断を受け1年間仕事を休職し、そのまま退社。
薬を服薬しながら治療を続けた。
4.路上詩人との出逢い
心身の状態が回復した2013年1月に、埼玉県越谷市にあるショッピングセンターで路上詩人『はなさかおーし』さんとの出逢いを果たす。
「自分の気持ちをはっきりと口に出して言うことができず、口ごもっていたら、『僕に書いてくれないか』って言われたので、見様見真似で書いてみたら『あなたにもそういう才能があるかも知れないから、やってみたら』と後押しされたんです。お礼に筆文字で励ましの言葉を書いてもらったことがすごく心に刺さって、『その言葉を信じて私もやってみよう』と思いました」
以来、川口さんは独学で筆文字を学び、自身のフェイスブックに書いた言葉を投稿したり、出合った人に筆文字をプレゼントしたりするようになった。
川口さんの筆文字を受け取った人のなかには感動して涙を流す人も出てくるようになり、それが川口さん自身の喜びにも繋がっていったようだ。
2014年9月には、共通の知人のライブで知り合った3歳下の男性と恋に落ち、翌年には結婚。
3人の子宝にも恵まれた。
2015年からは、本格的に活動を開始し、同年7月には夫の後押しもあり、東京都文京区で初個展を開催することができた。
そして現在でも、ショッピングモールや百貨店などで精力的に活動を続けている。
そんな川口さんは、小学生のときに書道教室に通ったくらいで本格的に「書」を習った経験はない。
それでも、「温かさ」や「やわらかさ」「安心」ということを意識しながら書き続けたことで、現在の丸みを帯びた温かな字体に変化していった。
これまで7年間で500人以上の人の話を聞いて、ひとりひとりと対峙してきたが、大切にしているのは相手に対して精一杯の愛情を注ぐことと、あなたの命はかけがえのないものなんだという思いを伝えることだ。
「あなたの心に希望の華を咲かせる」という強い意志で目の前の人へ言葉を届けている。
5.包みこむ言葉
「お客さんの話を伺ってから書いているんですが、ある男性のお客さんが私の筆文字を見て涙を流されたんです。詳しく伺うと、奥さんを病気で亡くされていたようで、私のメッセージが心に響いたようです。つい私も貰い泣きしてしまったんです」
そう話す川口さんは、相手の話に耳を傾け、親身になって自分の心の奥底から湧きあがってくる言葉を丁寧に紡いでいく。
考えてみると、実に即興性が求められる創造的な活動なのだ。
そして、最も大切にしていることは、「日常生活で感じた自分の心の動きを見逃さないようにしていること」だという。
完璧主義者だった川口さんは、以前であれば、失敗したときに自分のことを嫌になり、その度毎に落ち込んでしまうことも多かった。
自分のことを責めて、「大人なんだから」とこれまで泣くことも我慢してきた。
ところが、あるときから自分の感情を素直に表現することができるようになり、心が救われたようだ。
それは、子どもたちの影響が大きいと語る。
「私にとって、子どもたちの存在はとても大きくて、子どもができてからの方が私らしく居られるようになったんです。妊娠して我が子をお腹のなかに授かったときから、自分を包み込んで守ってくれるような存在として認識していたんです。だから、子どもの前では泣くことだってありますし、そういうときに子どもが頭を撫でてくれるんです。ときには母と子の立場が入れ替わるときがあるんですけど、子どもがいることで自分を開放できているんですよね」
考えてみると、言葉というものは、ときには相手を優しく包み込むような「薬」にもなるが、使い方を間違えると相手を傷つける「毒」にだってなることがある。
言葉は強い力を持っているけれど、決められた常識やルールのなかで、僕らはいつも感情を押し殺して生きている。
言い換えれば、自分の言葉を発することができないでいる。
だから、SNSの世界では抑制された感情が爆発し、誹謗中傷の言葉が飛び交うことが多い。
でも、僕ら自身が言葉を発することが難しいのであれば、僕らの代わりに言葉を届けてくれる存在が必要なのだ。
僕らは、いつも自分と向き合って優しい言葉を投げ返してくれる人の存在を待っている。
そう、それは「開運筆文字アーティスト☆言葉屋 まりぃ☆」のような。
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