ショッピングモール(7)
包丁一本
夏実は大きな包丁を右手に握る。大きなまな板の上の大きな鯛。お頭と皮付きの見事なやつ。魚卸工場から届いただけの活きのいいやつ。尻尾の方から、すっと包丁を入れ、一気にすべらせる。朝9時。調理場は海の底のように静まりかえり、海の底のように冷たい。
隣で包丁をすべらせている沙織の息遣いが聞こえる。やったぜ、最高のおつくりが出来るぞ。沙織がつぶやく。今年の鯛はいいね。鹿児島産の養殖だから安いし。夏実もつぶやく。
ショッピングモールの西のコーナーを占めている鮮魚売り場。ここが夏実の仕事場だ。もう5年目。この秋、『鮮魚士』2級の試験に合格した。沙織は3級。良きライバルであり同僚だ。
長靴の底にもお腹にもカイロを張り付けてある。冬の仕事場の冷たいことといったら。薄いゴム手袋をしていても、冷たい魚を触る手はちぎれるようだ。ときどき、ボールのお湯で温める。
9時半にもなると客がそろそろ集まって来る。売り場担当にしきりに何か質問しているらしい。客の間を動き回っている売り場担当の男の子とガラス越しに一瞬目があった。
夏実たちから見れば息子のような男の子。この半年で魚のことを良く覚えて料理法など客に教えてくれる。
12時まで包丁を動かし続ける。次々に盛り付ける。刺身は盛り付けが命。見栄えがすべて。刺身が最高に美しく見える身の置き方の角度。色が最高に美しく見える取り合わせ、並べ方。すべてこの5年で覚えこんだ。誰が教えてくれたわけでもない。見よう見まねで覚えた。
人間、必要となったら、なんでも覚えられる。やってやれないことはない。夏実はそう思う。
真美たちはパートだ。鮮魚士の資格を取ったから技能手当は付くが、一時間60円。大した額ではない。それでも一日7時間働くと、420円の増額。『塵も積もれば山となる』。
包丁一つで、施設の父さんと失業中の夫と食べ盛りの高校2年の息子を養っている。疲れたの、体が冷えるの、時給が安すぎるの、言ってはいられない。
働くことが好きで始めたパートだが、今は家族を食わせるためだ。コロナで夫のやっていた居酒屋が潰れなかったら、こんなにがむしゃらに働く必要はなかった。
12時までトイレには行かない。白衣や長靴を脱いで何回も手を消毒するのが面倒だ。我慢する。一度、膀胱炎になってしまった。仕事前に水分は取らないからほとんど脱水状態。だが、美しいおつくりが次々に我が手で出来上がると歓びと達成感で尿意なんか消えてしまう。
夕方6時まで働き、家に帰る。冬の道を自転車を走らせる。家族のために鮪や鯛の刺身をそうそう買えるわけではない。今日はトリの水炊き。白滝をたっぷり入れて息子の胃袋を満たす。
ああ、誰にも言わないけど足腰が痛い。いつまでこの仕事を続けられるだろうか。夫の仕事は見つかるだろうか。去年の分の税金を払って、貯金は底つく寸前だ。
でも、包丁一本、私は家族を養ってみせる。鮮魚士の資格も取ったし、何より、あの職場が好きだから。
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