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ウォルト・ホイットマンの一断面     有島武郎

  月曜講習」という冊子で、内村鑑三氏の筆を通して、はじめてこの人の名が日本の活字で紹介された時、日本の土は毛ほども彼を受け入れる用意をしていなかった。私はその評伝を読んでも、それといっしょに論じてあったカーライルやプライヤントやホイッテヤーから彼を分離してみる術を知らなかった。

「大空のしとねせんには適(ふさ)わしき中米のprairie」と歌ったということや、米国西部の発展を予言したその予言が恐ろしいほどに正確に実現されたというようなことが、その本に書かれた彼の評論に連関して、かすかに今でも私の記憶に残っているくらいのものだ。私はあのを蔵書の中に加えたい望みも起こさずに札幌を去った。高山氏が前後して「太陽」で発表した評論も、私の軽い好奇心をそっと誘ったばかりだった。

 私はダンテとジョージ・フォックスの日記とだけ持って、他界に住むような人々の間にいたのであったが、二か月の終りには、私のいわゆる信仰なるものから離れていた(つい先ごろ私はスクタリ衛戊病院にいるあるトルコの高級看護婦が、バルカン戦争の悲惨を描いた一文を英国の雑誌に寄せたのを読んだ。その中に「もしキリスト教という名が人道という名で替えられてあったなら、十字軍と銘を打つこの戦争は、かくまでの悲惨を尽くしはしなかったろうに」というふうに書き現わされた文句を見た。私は感動した。私はそれだけのことをここに書き添える)。

 かくして私は在来の伝習と形式と信仰とを球のように抱いて、米国という所に渡った。それはちょうど日露戦争が起る前の年だった。どういう方針で三年を住み暮らそうということも考えずに、夢遊病者のように船路を急いだその時のことを思ってみると、私は恐ろしいということを知らぬ白痴であったに違いない。米国の第一年は日本での夢がそのままにというよりむしろ引き締まって続いた。

 しかしその当時、私は日露戦争というものを遠くでながめながら、時々トルストイに気を取られていたことを告白しなければならないと思う。それは私の心の奥の領土には、容易ならぬ変革で、私は黙って恐れおののいた。私はその夏、思い切って自分のいやがるような所に自分を連れて行った。二か月。私はダンテとJ・フォクスの日記だけを持って他界に住むような人々の間にいたのだが、二か月の終りには私はいわゆる信仰なるものから離れていった。

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 二年目に、私は北の方に漂って行ったが、その時から私は生まれる前の渾沌に生まれ返った。私は明らかに自己の分離を自覚せねばならぬはめにはいった。今まで内外からすかしたりなだめたりしていた仮睡の私は、相当の自覚を自分に強いた。そのころにホイットマンは、突然その大きな無遠慮な手で、悪戯者らしく私の肩を驚くほどたたいたのだった。

 私はニューヨーク市生まれの、一人の放埓な、しかし美しい霊魂を持った弁護士と共同生活を営んでいたが、学校の講堂から夕暮れに送られて帰る私は、ボストンから塵をかぶって戻るその人と、夕食後ランプを隔てて坐るのを楽しんだ。彼は必ず書架から草色の一冊を抜き出して、男らしく張りのある同時に感傷的な声をわざと抑えて、この詩かの詩とホイットマンの作物を誦読した。私は今思い出しても一種の小気味いい戦標を感ずる。

 Out of the rolling ocean, the crowd, came a drop gently to me,
 Whispering, I love you before long I die,-----

 というあの宝玉のような小歌や、

 0ut of the cradle endlessly rocking,----

 で句を起こす海鳥の悲劇や、リンカーンの死を追慕して歌った死の讃歌や、自分を歌った太陽のような大きい輝いた「Walt Whitman」や、私はいつまだも涙を溜めてでなくては聞くことのできなかった。彼も涙を頬に伝わせながら恥ずかしげもなく読み続けた。洟をかむ時のみ歌が途切れる。いつでも彼がこの魔杖のような本を閉じる時には、彼と私とは同じ人になっていた。ホイットマンになっていた。

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 私の心の領土は今でも混乱の限りを尽くしている。私の内部では正しく二つの力が対峙している。外部にも内部にも矛盾を極めたこの自分を見ると、我ながら沙汰の限りと言わねばならぬ。しかし私は慰籍なしではない。私は若い心といっしょに生活していることを知っているからである。私は今でも偽善者である。偽善者であるけれども少しずつ自分に帰りつつあることを知っているからである。私はだんだん最後のクライマックスの方に進みつつあることを知っているからである。健全であれ不健全であれ、私の脈は地球の脈と同じ打ち方をし始めたことを知っているからである。どうかしなければならないということをより強く感じ始めたからである。こんな衝動と慰籍を感じさせてくれたことを私はホイットマンに感謝しなければならない。

 私はボストンの町を「Leaves of Grass」を尋ねて歩いた時のことを思い出す。本屋の番頭はホイットマンの名を聞くと、パリサイ人のような顔をして、そんな本は持ち合わさないと言った──そういうことが本屋としての誇りででもあるように──私の尋ねた二、三の本屋はみんな同じ態度で黄色の顧客をはねつけた。

 私は友だちの注意で、三月のある日、社会主義の書物などを売る薄汚い店を訪れた。そこに、今私の傍に垢づいて横たわっているこの離れがたい書物は私を待っていた。私に買わるべき運命を担って私を待っていてくれた。今でも思い出す、その日はその店のように薄汚く曇った寒い日であったが、店の爺さんは私を隅の方に引っぱって行って、その時マサチュセット州で発売禁止になっているというトルストイの「クロイツァ・ソナタ」を無理に買わせようとした。

 ホイットマンとその詩集は今でもその故国の義人の間にかかる待遇を受けていることを記憶せねばならない。その義人たちもそんな待遇をしたことをしっかりと後日のために覚えておくのが肝要だ。

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 若いうちから白くなった頭の毛と髭とを不作法に乱して、さすがに詩人らしくやや青みを帯びた顔に、灰色がかった眸を光らして、特有な純色のだぶだぶした衣物と鍔の広い帽子を装ってブルークリンの町を御者や工人に挨拶しながら歩いて行くこの人を見ると、人々は好意をこめてgood old gray poetと呼んだそうだ。私はしかしこの称呼の中に、せまらない大きな調子のあるそれだけは取れるけれども、この人は全体こう呼びかくべき人ではないと思う。彼を考えることは、強さと若さと輝かしさとを考えることだ。

 ニューヨーク市の対岸に魚の形をして横たわるロング・アイランドは彼の生まれ故郷だった。東に面した一帯は荒れ果てた砂岸で、波の強さに沖から寄せ集められた砂は積んで細長い洲嘴(すはし)を連ねていた。難破船も珍しくはなかった。小さいワルトはメキシコやエリザベスというような船(マーガレット・フラーはエリザベスとともに沈んだ人だ)の悲劇を覚えている。彼は悪戯仲間と鰻を突いたり海岸で氷すべりをしたり海鳥の卵を集めたりして、海風に頭の毛をなぶらせながら裸足で飛びまわった。文明というものを知らぬげな原始的な粗暴な船子と、細農のために羊を集めてこの痩土で放牧しながら今日今日を暮らす、乞食よりも貧しい牧者は、島の精のようにまだその辺をさまよう頃だった。

 彼はこの島の砂原に生えるsaltgrassの葉の一つのように土に喰い込んで身丈を延ばした。この島を銅色人はポマーノクと呼んだ。彼はその名を恋人のごとく愛した。その詩の中にこの名が出て来ると名を組み立てる字の一つ一つが懐旧の絃に乗ってふるえながらすすり泣いている。四十になってから彼はこの当時を見返って、「私の性格を造った力が三つある。遠いオランダから来た最上の血統(母方の)、父方なる英人の血統からきた執拗と自恃。それに生地ブルークリン、ニューヨーク、南北戦争以後の経験だ」と言っている。

 母方の近親にはことに強烈な性格があった。男のような性質と気象を備えて、馬上から農業の監督をした伯母がいたり、さらに深厚な識見と意志とを持ちながらクエカーの典型らしく家を守った賢婦人もある。けれども彼が最も強く吸収し(彼の言葉を借りて言えば)、彼を最も強く吸収したものは自然だった。

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 彼は1819年5月30日に世の光を見た。その同じ年に、英国ではラスキンが生まれ、米国ではロウェルが生まれている。ウイリヤム・ロゼッチが彼の詩を英国で出版したからラスキンはきっと読んでいるに違いないが、読んでなんと思ったか知らない。ロウェルにはてんでわからなかった。いくら読んでみてもどこが好いんだかさっぱり見当がつかないと皮肉を含んで言っている。皮肉を含む、そういう喜悲劇が詩というものにあらねばならぬのだ。

 私は日付けを並べることはもう止める。この人は霊の発達と日付けとを結び着けてもらう必要は感じておらないと思う。で、ワルトは間もなくブルックリンに移った。彼はそこにいる間にいろんなものを見た。ジャクソン、ウェブス夕一、コッスート、ブライアント、ディケンズ。日本の大使(最初の)、ジェームス・クーパー、ポーというような歴史的人物もその記憶に残った。ラファエットが二度日に来た時、この米国独立の大恩人は歓迎式を見ようと集まった人垣の中から小さな五歳のワルトを抱き上げて高い所に置いてくれた、そんなこともあった。彼は夏には休日ごとに生地に行って真裸で岸をかけずりまわりながら、ホーマー、シェクスピャの名句を海鳥を相手に大声で朗読したり、印刷工場で真黒になって働く間に、ワシントンを目前に見たという革命的なボスと懇意になって、図書館に通う便宜を得て、スコットを始め小説という小説を手当たり次第に読みふけったり、劇場に行って夢中になったりした。

 彼の音楽や戯曲の評は、超越的なものだ。芸術の中心に分け入ってその真価を吸収し、少しも他人の是非好悪に煩わされないありさまは、彼の創意の気分の異常なのを遺憾なくなく現わしている。だがそれにも増して彼の心を捕えたものは、都市の自然だった。渡船、乗合馬車、ブロードウェーの見渡し、彼はその中に融け込んでしまうことを心の燃料とした。乗合馬車の騷がしい音にまぎれ込んで彼はよくシーザーやリッチヤードから火のような文句を拾って高誦したり、御者と近づきになって晩年まで名を覚えていた。Balky Bill, Old Elaphantその弟のYoung Elphantというような名前は、リンカーンやワシントンと同様の権威を提げて、彼の書物にページの上に躍っている。

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 彼は万人のやることをみんなやった。法律家、医師の書生にも、活字職工にも、大工にも、小学校の教師にも、書記にも、新聞記者にも、請負業者にもなった。寝坊だった。数日の間どこをさまよっているのかわからないと思うと、どうかして精々と働くこともある。その外面ではいかなる労働者よりよい労働者ということはできなかったが、その内部に目まぐるしく働いているもののあることは、その兄でも知らなかった。この三十男の心の奥にはsimmerする何者かがあったのだ。それを彼といえどもどうすればいいのかわからなかった。

 彼はいつものとおりポッケットの中に本を一冊入れて仕事に出た。昼食時にいつものとおり、片手に母が作ったサンドウィッチを握って噛りながら、もう一つの手で本を読んだ。それは偶然にもエマーソンの作だった。彼はしまいに食うものを忘れて読んで読んで読んだ。この時アメリカの上天は降り、大地は上って、大きな抱擁をしたのを歴史も人も知らずにしまったのだ。「霊の法則」「自然論」「自衿論」などを彼は毎日持って出て読んだ結果simmerしつつあったものが、とうとうboil over したと彼は言っている。

 マッチが爆裂したのではない。爆弾の口火に火を導いたのだ。エマーソンが彼を詩人としたのではない。かの一人がエマーソンを縁にして眼を覚ましたのだ。彼はboil overしたその瞬間から、エマーソンとは全く違った道を歩いている。四十一になった時、彼が「草の葉」三版を発行するためにボストンに行ったら、五十六の分別盛りなエマーソンは、理を尽くして彼に詩の改訂を求めた。二人はボストンの大道を二月の真昼二時間というもの往ったり来たりして論じ合った。

 主となって論じたのはエマーソンだったが、その理論の透徹と同情の深切なのには彼も返す言葉を知らなかった。二時間経ってからエマーソンは彼に向かって「で、君はどう思う」と言った。彼は「私は一言も答えられませんが、私はますます自分の説を固執して、これを模範とすることに決めるほかはありません」と言い放った。そして二人は睦ましく食事をともにして別れた。

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 彼の詩の初版が出たのは三十六の時だ。彼は自分で字を組んで自分で印刷した。薄い冊子が弱い者のように影も薄くこの世に生まれた。これから「草の葉」はその著者の生長とともに生長していくのである。三版にはあの大胆不羈(ふき)な「アダムの子」と「カラマス」が付け加えられ、さらにその後に「軍鼓のひびき」という戦陣の詩がはいって、彼を不朽にすべき記念碑は成り立った。
 
 彼の詩は誤解と迫害との十字火を喰った。発行が妨げられたばかりでない、彼はこれがためにワシントンにおける専売特許局から免官させられた。エマーソンのような無私な人でも、人前をかねて心にもないことを言った形跡がある。一冊をカーライルに送った時添えた手紙のごときは、明らかに米国の野蛮人と見下されるのを恐れるかのように、自分が英国人でもあるふうな物の言い方をして彼を見下している。
 ホイットマンがかかる黙殺と罵言の間に立ってとった態度は涼しい大きなものだった。彼は未来の勝利を明らかに見うる超人のごとくに、価値ある者のいつかは世を征服すべきを信じて疑わぬ楽天家のごとくに、平気で最後まで初一念を翻えすことをしなかった。
 
 I know I am deathless;
 I know this orbit of mine can not be swept by the carpenters compass;
 I know I shall not pass like a child’s carlacue cut with a hurnt stick at night.
 I know I am august; I do not trouble my sprit to vindicate itself or be understood;
 I see that the elementary laws never apologize;
 (I reckon I behave not prouder than the level I plant my house by, after all.)
 I exist as I am that in enough; if no other in the world be aware, I sit content.
 One world is aware, and by far the largest to me, and that is myself;
 And whether I come to my own to day, or in ten thousand or ten million years.
 I can cheerfully take it now, or with equal cheerfulness I can wait.
 
 彼が北や南で新聞の編集に従事しているころ、米国は一つの大きな試みに会ってうめいていた。米国の第二次独立戦争といわれる南北戦争はその徴候をいたるところに現わしていた。彼はその生まれ故郷の関係からいっても、本来の性情からいっても純血種の奴隷廃止論であったが、いよいよ戦が起ってその兄弟の一人が戦地で負傷すると、彼は何もかもさておいてその看護のためにワシントンに走った。「草の葉」の第一および第二版は、この国民的大混乱の渦中に埋もれて世から忘れられたのを彼は忘れていた。ものものしい南人の振舞だ、たかが一揆の類になんの準備がいるものかという気構えで、北方の兵士は南人を引っ捕えて縛り上げるべき縄を用意して、鼻歌まじりで南に向かった。しかしそれは恐ろしい打算の誤りだった。Bull Runの一戦にもろくも微塵に敗れた北軍は、雨のしょぼしょぼと降りしきる中を意気組喪してワシントンに逃げ帰った。
 
 これからのワシントンは中央政府の座位であるとともに、混乱と悲惨を極めた一大病院に化してしまった。すべての大きな建物という建物には負傷者が溢れてうめいていた。専売特許局の見事な標本の間からも運命を呪う患者の声が漏れた。彼は兄の病気が癒えてもここを去ることができなかった。それから満三年というもの、この熊のような男は鳩のような心に鞭たれて看護夫となった。「自選日記Specimen Days in America」の中に描かれたこの三年間のスケッチはトルストイの「戦争と平和」にも比敵すべき深刻な叙事詩だと私は思う。彼はたんに病いに恃したばかりではない、そのいくらもない金嚢をひっくりかえして、ありったけ美味いものや文房具のようなものを買って、まんべんなく患者に分けた。病人の傍について快活な好意ある話し相手ともなった。また文字のない者のために手紙も書いた(母や恋人に送る手紙は入念に優しく書いてやったと彼は言っている)。

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 こうして彼は生きたアメリカ、生きた人道と、血を見るような接触をした。敗戦の混乱に人々が気をわずらしている時、黒衣をまとって毅然たる面持ちに日ごろの人柄も忍ばれる老貴婦人が、雨にぬれながら兵士の間に食物を分かつ光景、若い兵士の傍に付き添う母のような老看護婦、傷の癒えた兵士とともに患者の間に立って、天使のように讃美歌を謡う若い看護婦、米国全国民の喜憂を重そうに眉間に担って、人道の奥底から湧く悲哀と、確信の聖壇から漏れる法悦とを顔一面にみなぎらしながら、一隊の兵士に護衛せられて馬車を駆る大統領リンカーン、その側に小さくわだかまるその愛児、肩章はいかめしく飾りながら、おめおめと逃げ帰ってワシントン第一の旅館にしたり顔する一群の将校、雨に濡れそぼっている尻尾から水を滴らして立ち尽くす一列の軍馬、月光に見た大統領官舎、生に還る驚喜、死に赴く苦悶、憤怒、悌泣(ていきゅう)、大笑、切歯……、彼はすべてそれらの中に、その宏大な同情をもって溶け込んでしまった。
 
 彼はいつしかリンカーンと挨拶し合うほどの知り合いとなっていた。ある時彼がその長大な体をそびやかして往来を歩いているのを見た大統領は、側に居合わせた人を顧みて「あそこに一人の男が歩いている」と言ったそうだ。とにもかくにもその当時のワシントン市はよく壊れもせずに、この大きな二人の男を抱きかかえていたものだ。
 戦争はついに終わった。そしてリンカーンは殺されてしまった。ワルトは戦争中の功労によって特許局に書記の位置を得たが、「草の葉」の著者たるかどで免職になって他の役所に移った。そのうちに戦争中の疲労が出て中風になった。そしてフィラデルフィヤの郊外のキャムデンで、始めは兄の家に、後では電車の車掌夫婦を同居人に置いて静かに余生を送ってこの世を去った。

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 彼が南北戦争で、人と、人の事業というものを知ったように、キャムデンの幽棲で自然というものと黙会した。それは彼の詩のすべてが証明を与えている、彼は草の語るを聞き、木の歩むを見た。そして自然と人類と自己というものを全く融合した。彼の指す所に人類は歩む。彼の叫ぶ所に自然は呼ぶ。見たまえ、念々刻々向上し発展してやまぬ人の群れの勇ましい歩み。永世を暗示して、人の耳にはあまりに高き歌を奏でながら、私らを囲む無際の自然それがホイットマンその人だ。

 I will effuse egotism, and show it underlying all and I will be the bard of personality; and I will show of man and female that either is but the equal of the other;
 And sexual organs and act! Do you concentrate in me for I am determin’d to tell you with courageous clear, voice, to prove you illustrious;
 And I will show that there is no imperfection in the present and can be none in the futre;
 And I will show that whatever happens to anybody, it may turn’d to beautiful results and I will show that nothing can happen more beautiful than death;
 And I will thread a thread through my poems that time and events are compact,
 And that all the things of the universe are perfect miracles, each as profound as any.
 
 私は明らかにここに予言することができる。私の内部の声が告げるところによれば、ホイットマンは来たるべき時代を生み出す野の声である。ホイットマンの思想に避くべき何者もない。生活の充実した部分で彼に触れて見たまえ、彼ぐらい生きた膚触りを与えるものはまたとあるまい。私は彼の慰籍と鞭燵を愛する。慰籍と鞭捷、そんな言葉は彼に適(ふさ)わない。彼の愛撫と呪誼。それを私は愛する。(1913年「文武会報」誌)

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特集 ウォルト・ホイットマン
平等主義の代表者ウォルト・ホイットマン 夏目漱石
ワルト・ホイットマンの一断面 有島武郎
ホイットマン 白鳥省吾
ホイットマンの人と作品 長沼重隆
ヴィジョンを生きる 酒井雅之
ウォルト・ホイットマン 亀井俊介
ホイットマンとドストエフスキー ヘンリー・ミラー

草の葉ライブラリー                         ウオルト・ホイットマン読本                     近刊

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