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チャタレイ裁判の記録 起訴状

起訴状

記披告事件につき公訴を提起する。
被告人小山久二郎は千代田区富士見町二ノー二に所在する株式会社小山書店の社長として出版販売等一切の業務を統括して居るものであり、被告人伊藤整は英文学者として、著述業に従事し、且、その間、数多の英文学作品の翻訳に当って居るものであるが、右被告人両名は共謀の上、英国文芸作家ディー・エッチ・ローレンス(一八八五~一九三○)の著作にかかる『チャタレイ夫人の恋人』の原作を被告人伊藤整に於いて翻訳し、これを前記小山書店からロレンス選集の一部として上下二巻に分ち発行販売することを謀り、同著作は優れた社会的環境の下に父祖より善良な素質を享けつぎ教養にも欠くるところなく、平穏なる生活を営んでいるに拘らず、戦傷の結果、性交不能に陥った夫クリフォードを持つその妻コニイが性交の満足を他の異性に求めて不倫なる私通を重ねる物語を叙述せるものでその内容は、例えば、一、たまたまクリフォードの許を訪問し、両三日滞在中の反社会的で「下司な」憂鬱にさえ見える痩せた文芸作家マイクリスが発情期の牝犬の如く「牝犬神」の有夫の婦コニイに迫ると、コニイは無反省に且盲目的に野生的な肉的欲情に燃えて、直にこれをうけ容れた私通性交の情景や、性交による男女の感応的享楽の遅速等を露骨詳細に繰返し描写し、例えば、(一)上巻五○頁下段六行以下五一頁上段一七行迄(二)同八九頁上段一○以下九○貢下段一七行迄。
二、完全なる男女の結婚愛を享楽し得ざる境遇の下に人妻コニイはマイクリスとの私通によってこれを満たさんと企てたが、本能的な衝動による動物的な性行為によっても自己の欲情を満たす享楽を恣にすることが出来ず、反って性欲遂行中の男性に愉悦の一方的利己的残忍性すらあるを窃かに疑い失望に瀕したとき、自分の家庭で使用する森の番人で教養の度に優れず社会人としても洗練されて居ない寧ろ野生的でそほんな羞恥心をわきまえざる有婦の夫メラーズを発見するや、不用意な遭遇を機会に相互の人格的理解とか人間牲の尊崇に関し些の反省批判の暇なく、全く動物的な欲情の衝動に駆られて直に又これと盲目的に野合しその不倫を重ねる中漸次男女結合の性的享楽は性交の際に於ける同時交互の性的感応最高潮の愉悦を得るにありと悟り、人間の憧憬する美は性交の動態とその愉悦を創造する発情の性器となりと迷信し、蔽もなく恥もなく性欲の遂行に浸り人間の差恥を性欲の中にしたる男女性交の姿態と感応享楽の情態とを露骨詳細に描写し、例えば、(一)上巻一八四貞下段一四行以下一八七頁下段一三行迄(二)二○一頁上段一二行以下二○三買上段一三迄(三)同二一三貰下段一○行以下二一六員迄(四)下巻四五貢下段四行以下四七頁上段三行迄(五)同四九貢下段四行以下五三頁上段一七行迄(六)固一○四貢下段一三行以下一○九貰下段八行迄(七)同一二四賞下段一六行以下一二八貢下段三行迄(八)固一六三貞下段八行以下一六五買末迄(九)固二一○貰下段一八行以下二一二貢下段一○行迄。これがため我国現代の一般読者に対し欲情を連想せしめて性欲を刺激興奮し且人間の差恥と嫌悪の感を催おさしめるに足るワイセツの文書である前記『チャタレイ夫人の恋人』上巻八万五百部同下巻七万部を夫々発行の上、昭和二十五年四月二十日頃より同年六月上旬迄の間、前記会社本店に於て、日本出版販売株式会社その他を通じ一般読者多数に販売したものである。
罪名 猥褻文書販売
罪状 刑法第百七十五条

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起訴状こそ猥褻文書

 法律家たちの書く文章のわかりにくさは定評のあるところだが、この起訴状の劣悪さといったらどうだろう。句読点を打つだけの文章が延々と続き、主語と述語の関係がまったくみえない悪文の典型的な見本であるが、そのことよりもこの全文にただよっている下品さと卑猥さといったらどうだろう。むしろこの起訴状そのものを猥褻文書罪といったもので告訴したいほどある。しかし日本版チャタレイ裁判はこの一枚の醜悪きわまりない起訴状によってはじまったのである。

 裁判は1951年の5月にはじまり、11月に裁判をしめくくる検察の論告求刑があるのだが、この論告求刑というものが見ものであった。この卑猥な起訴状を裏打ちするにはそれなりの思想のドラマや言葉のドラマが展開されていくはずなのだ。いったいどのような言葉の組み立てによって「チャタレイ夫人の恋人」を卑猥であり猥褻であると断罪していくのか。しかしその論告求刑を読みはじめていくと、その空っぽさにあきれるばかりだった。

「草の葉」ではその長い論告求刑のほんの一部しか切り取ることができないが、この論理の組み立てというものを簡単に言うと、検察側からも検察の意にかなう証人を何人か招いて法廷に立たせているが、その証人たちの証言をつなぎあわせただけにすぎないのだ。ある学者は卑猥であるといっている、ある教育者は青少年たちに読ませられない有害図書であると言っている、ある市民は性犯罪を誘発しかねない悪書であると言っている、したがってそれら知識人良識人市民の多数の声をつなぎせあわせてみたって、これは社会に害悪をもたらす猥褻の書であるといった論理なのだ。その検察側がくりだした証人たちの証言を読んでみると、どうも彼らが丁寧に読んだのは猥褻とされた箇所だけで、小説「チャタレイ夫人の恋人」の全文を読み切っていないようなのだ。そのためなのか彼らの証言がひどく底が浅いものだから、それらをつなぎあわせた論告求刑というものが、いかに空っぽのものだということがわかる。

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 これを迎えうつ弁護側は、当時の日本の知性とよばれた人々を次々に法廷に立たせて証言させるのだか、さすがにそこには言葉のドラマがあり、思想のドラマがある。巨大な国家権力に素手で立ち向かっていくには、深い思索の中で組み立てられた思想のドラマが必要なのだ。

 判決文は、この弁護側の論陣に止揚されてなかなか高い調子の文章になっているが、しかし実に奇妙な判決が下される。翻訳者である伊藤整は無罪であり、これを出版した小山書店社長小山久二郎氏は有罪であると。事の道理というものは、本体が黒であるがゆえに、それを出版すると黒であるということになる。あるいは出版された物が黒であるのは、その本体が黒だからだということである。ところがこの判決は、本体は白であるが、その白い本体も販売すれば黒となるという論理的矛盾の上に成り立っている。

 さすがに上級審ではこの矛盾が整合されて、翻訳者にも同等の有罪判決が下された。この判決は今日までも厳然と生きていて、猥褻とはなにかが問われるとき、きまってこの判例がもちだされる。猥褻罪の原点とでもいうべき判決だった。

 伊藤整訳の「チャタレイ夫人の恋人」は新潮文庫におさめられていて、絶版にもならず品切れにならず、いまでもいつでも手に入る。その文庫を手にすると、十ケ箇所に*というマークが付けられ、文章が切断されている。あとがきにもそのことが一言もふられていないから、チャタレイ裁判などを知らない若い読者にはこの*マークの意味がまったくわからないはずである。この部分こそ猥褻とされた箇所で、新潮文庫版は判決にしたがってこの部分を削除したまま刊行している。しかしこの判決が下ってから二十一年後の1973年に、講談社は羽矢謙一の完全訳を講談社文庫によって世に送りだしているのだ。世間に波風をたてまいとひっそりと刊行されたこともあって、その完全訳はほとんど読書社会の話題にもならず、文学ブームも去って、いまではその本は絶版状態で手に入れることはできない。

 この羽矢謙一訳で、新潮文庫版の削除された二カ所を埋めるという試みをしてみたが、果たして読者はどう読まれるのだろうか。恐らくそこには野卑な起訴状とはまるでちがった世界が展開されていると感じるのではないのだろうか。毒々しいまさに猥褻小説が氾濫するこの時代に、ロレンスが描きだした性愛の世界は古い名画をみるような格調さえある。性毛に忘れな章はさみこむという描写など、上質のフランス映画を見るような美にいろどられていないだろうか。いまや伊藤整訳の完全版を世に出しても、だれもこれを猥褻図書などといわないだろう。すでに講談社版によって完全訳は世に出ているのだ。検察が再びこの図書を摘発することなどありえない。

 『草の葉』五号のなかで、翻訳者によって原作のイメージがずいぶん違ったものになるという編集を試みてみたが、伊藤整訳と羽矢謙一訳は、これはまたまるで違った作品になっている。翻訳とはただ横に流れる文字を縦の文字にするということではなく、訳された日本語に磨きをかけ、日本語としての香りをつくりだしていかなければならない。伊藤整は作家であり詩人でもあった。彼は伊藤整のチャタレイにせんと日本語に磨きをかけたはずである。その削除された部分を伊藤整はどのような日本語で訳出していったのか。その日本語がもう世に出ていいのである。吉田健一は「ロレンスの思想は、性本能から出発した独創的なものであるから、検事指摘の十二カ所を削除すれば残部は全然意味がなくなる」と証言している。新潮社はもう伊藤整の完全訳を世に出すべきなのだ。

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 その完全版を刊行させることは実はもっと深い意味をもっている。「チャタレイ夫人の恋人」が現れたとき本国のイギリスむろん、アメリカでもヨーロッパの国々でも、一斉に猥褻図書の烙印が押されたが、しかしそれから数年後には、次々と裁判によってこの書は勝利をかちとっている。いまや世界のどこでも完全版で読むことができるのに、日本ではいまだに伊藤整訳のチャタレイは削除されたままである。それはいまだこの小説が「性交の動態とその愉悦を創造する発情の性器にありと迷信し」、あるいは「欲情を連想せしめて性欲を刺激興奮しかつ人間の重恥と嫌悪の感をもよおす」という醜悪きわまりない起訴状に屈服したままであるということを物語っていることなのだ。おくればせながらこの日本においても、伊藤整の完全訳を刊行することよって、ひとつの決着をつけるべきなのだ。

「チャタレイ夫人の恋人」はロンレスのおびただしいばかりの著作の最後に来る小説であった。彼がどんなにこの小説に力を投入したかは、三度もまったく違った小説に仕立てて書き直していることからもわかる。いわばロレンス文学を総決算するような作品であった。ロレンスはこの小説でなにを書きたかったのか。この小説の主題といったものはその冒頭に書かれている。伊藤整の訳である。

「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである。大災害はすでに襲来した。われわれは廃墟の真っ直中にあって、新しいささやかな生息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。未来にむかって進むなだらかな道は一つもない。しかしわれわれは、遠まわりしたり、障害物を越えて這い上がったりする。いかなる災害がふりかかろうともわれわれは生きなければならないのだ。これが大体においてコンスタンス・チャタレイの境遇であった。ヨーロッパ大戦は、彼女の頭上にあった屋根を崩壊させてしまったのだ。その結果として彼女は、人間は生きて識らなければならぬ物があることを悟ったのである」

 生を見失った現代人がいかにしてその生を取り戻すかの物語なのである。

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チャタレイ裁判の記録
序文  記念碑的勝利の書は絶版にされた
一章  起訴状こそ猥褻文書
二章  起訴状
三章  論告求刑
四章  福原神近証言
五章  吉田健一証言
六章  高校三年生曽根証言
七章  福田恒存最終弁論
八章  伊藤整最終陳述
九章  小山久次郎最終陳述   
十章  判決
十一章  判決のあとの伊藤整
猥褻文書として指弾された英文並びに伊藤整訳と羽矢訳
Chapter2
Chapter5
Chapter10
Chapter12
Chapter14
Chapter15
Chapter16

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