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生涯編集者──戦争と人間を見すえて  原田奈翁雄

 幸運なことに私は二人の大きな編集者であり、出版人であり、思想家であり、地平を切り拓いた人に出会っている。一人は理論社を創立して、二千冊にも及ぶ本を刊行した小宮山量平さんであり、そしてもう一人は原田奈翁雄さんである。原田さんの生年は一九二七年だから、九十歳を三つこえたことになる。その原田さんが、先月渾身の一冊を世に放った。「生涯編集者──戦争と人間を見すえて」(高文研刊)である。いまや原田さんや、原田さんが成し遂げてきた大きな仕事がどんどん忘れ去られていく。原田奈翁雄さんとはどういう人だったのか、どんな大きな仕事をしてきたのか、そのことが刊行された本のなかに、原田さん自身の手によって書かれているので、その部分を転載する。本を世に投じることがいかに厳しい行為かということが書かれている。

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 私は出版編集者として、数えたことはないけれど、何百冊もの本を作ってきた。筑摩書房では、『展望』『終末から』という雑誌の編集長をつとめ、社外の作家たち、小川実、高橋和巳、柴川翔、開高健氏らの同人文芸雑誌『人間として』の刊行、編集にあたっては、私が筑摩書房側の代表として参画してきた。
 筑摩書房が倒産して、当時、取締役編集局次長だった私は筑摩を退社。
すでに三十年間近くも編集者をやってきた私に、退社を機に、もう編集者をやめようではないかという思いがおのずと芽生えてきた。
 自分でたくさんの本を刊行しているのに、書店の店頭に立つことが次第に苦しくなってきていたのだ。書棚には、わんさと本の背中、タイトルが互いに押し合いひしめいて自分を主張している。一冊一冊が、「おれを読め! 読んでくれ!」と叫んでいるように見えて、書棚の前に立つと息苦しくならずにいられないのだ。売れさえすれば何でもいいと、そればかりを求めるようにも見える本たちもあふれている。ここに私も肩を張りつづけるのか。
 もう十分だ、足を洗おうという気持がつのってきた。食うために、カレーライス屋でも始めようかと、確実に心が傾いていった。カレーライスのレシピ本を求めて、読み始めもした。九州、筑豊の炭鉱の町に店を開いて、坑夫坑婦たちに会いたい、共に語りたいという願いを秘めて。

 筑豊の炭鉱に、上野英信という作家がいた。
 私は彼の岩波新書『追われゆく坑夫たち』(一九六〇年)を読み、初めて炭坑で働く人びとを知って深い衝撃を受けていたのだった。戦争中人学生だった彼は、戦後自ら坑人になって地底深い所でひたすらに石炭を掘って働いていた。それが彼なりの戦争責任の担い方であったことが明らかであった。いつしょに働く坑夫坑婦たちの生きざまの丹念な描写、報告、生き生きとして生きる彼らへの愛と共感にあふれる上野氏の仕事にふれて、このように生きる人が、現に地下深い炭坑に、坑夫たちと共に生きている。そして書いている。こんなすごい人が、その素敵な仲間たちが生きている現場ならば、おれも生きることができる! 彼の存在とその場が、深く強く私を魅了し、励まし支えてくれていたのだった。
 私はその筑豊に行こうと考えて準備を始めたのだ。
 
 そこへ、否応もなく、別の事件がおこってしまった。
 あの「ふきのとう」の作者、山代巴さんからの、のっぴきならぬ話だ。
 全く偶然、山代さんの書いた小さな物語「ふきのとう」に出会ってから数年後、私は筑摩書房に入社して編集者になっていた。ゴム長靴をはいた山代さんがある日筑摩を訪ねてくれて、私は初めて山代さんと会ったのだ。それ以来、ずっとつき合いがつづき、私はいよいよ山代さんの仕事に魅せられていったのだ。そして最後に、私は山代さんと大きな仕事を約束していた。彼女は、戦争中囚われていた広島県三次市の女囚刑務所での体験を、一大長編小説として、ずっと書きつづけ、私は私なりに、その山代さんを支えつづけて、その原稿がすでに完成を目前にしていたのだった。全十巻にもなろうという大作品の刊行をいよいよ始めるという矢先の筑摩の倒産だった。当然それがむずかしいことになってしまったのだ。

 生涯をかけた大仕事の完成を前に、思いもかけぬなりゆきに、彼女は困惑しきって、彼女の師事する哲学者の久野収氏、物理学者の武谷二男氏と相談しながら、いくつかの出版社に刊行の話を持ちかけたのだけれど、余りにも膨大な仕事、当然のこと、いっこうにめどが立たなかった。
「原田君、あなたにやってもらうしかないよ」
 山代さんはとうとう私にその出版を迫ったのだった。ということは、もちろん私が出版社を創業しなければならぬということだ。
「ふきのとう」で、あの放火犯の貧しい農婦を私に出会わせてくれた山代さん。筑摩で刊行した彼女の小説『荷車の歌』は大評判になった。全国農民組合の婦人部がその映画化に取り組んで実現させた。三国連太郎、望月優子を主役としたその映画は、農民女性たちの広汎なカンパ運動によって資金を集め、松竹だったかで製作、全国で公開され、広く大きな反響を呼んでいた。
 敗戦を境に、日本の大人たちに対してきっぱりと閉ざしていた私の目を、はっきりと見開かせてくれた山代さん。その恩顧は私にとって並人抵のものではない。その山代さんに迫られて、私は戸惑うばかりだった。

 当然、妻に相談した。
 当時の妻Sは、筑摩や大月書店にもの務めていたのだから、出版の事情にくわしく通じている。出版社は、大した資本がなくとも簡単に創業することができる。しかしその末路は大方が幾年ももつことなく、次々に倒産し、消えていく。身近にその実例を彼女はいくつも見ていた。彼女が頭から私の創業に反対するのは当然のことだった。最後には、山代さんも直接Sへの説得にかかった。広島が本拠の山代さんは、東京に出た時には、わが家に泊まって原稿を書いたり、取材に出かけたりしていたから、Sとももちろん十分に親しんでいたのだ。
 とうとう最後にSは、私に対して、銀行から借金をしない、家を抵当に入れないという絶対条件で、私の創業への反対を取り下げてくれた。
 かくして一九八〇年八月十五日(ここでも私は八・一五にこだわっていたのだ)に創業した私の径書房は、『山代巴文庫 囚われの女たち』全十巻の第一巻、「霧氷の花」の刊行にこぎつけたのだった。「霧氷の花』の奥付裏に、さらにはすべての刊行書の末尾に、私は創業にあたってのあいさつを印刷した。

 細い道です。もちろん幾多の曲折も、時にけわしい岨道(そばみち)もあって、しかしどこまでもつづく道です。
 昔は、けものみちだったかも知れません。けものたち、そして人間たちの足が、永い時をかけて踏み分け、踏みかためた道、それが径(こみち)です。けたたましい車の、まして戦車などの通る道ではないのです。
 私たちもまたその道を歩みつぎます。歩んで、先人、同時代の人びとの、すぐれた仕事に出会いたい。生きる知恵と勇気を分ち与えられ、狭いとらわれから、みずからのたましいを解き放ちたい。その仕事にたしかな形を与えて、読者、あなたに手渡したい。‥‥この道であなたに出会うために、ともによりよく生きるために、いささかなりとはたらくことができるならば、こんなにありがたいことはありません。……
 一九八〇年八月十五日         径(こみち)書房


になん




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